第16話 還るべき場所
あれから、星を見たあの日から一カ月が経った。
まだ箱の中身も、当然社会の姿もまだ知らない。
ユリカと俺は、お互い目指すべき徴から何となく目を逸らして、曖昧模糊とした日常を過ごしていた。まだ五月だというのに熱い大気が街を覆い始めている。
箱は毎日のように眺め、弄り、そして諦めた。一度だけバイトの面接に行った。普通に落ちた。面接官と目をうまく合わせられなかったのが敗因だと思う。
ある暑い日、海に行った。砂浜から眺める水平線の壮大さに、自分の現状がいかに矮小なものか言い訳を求めた。ユリカはただはしゃいでいた。
「向こうには何があるんだろう」
遥か先の水平線を見ながらユリカが言った言葉だ。
「なんだろうな」
返す言葉は日差しの中に消えた。
貯金残高は現実的なデッドラインを示している。ユリカの記憶は戻る気配を見せない。そんな時、電話があった。
俺の実質的な保護者を務める叔母からだった。
「ナオトくん、申し訳ないのだけれど・・・実家に、買い手がついたの、もしかしたら最後になるかもしれないから見に来ない?」
永遠に手に入らない還るべき場所。――父さんと母さんと俺の記憶が詰まった場所。
本当の別れの日が来た気がした。
†
「父さんと母さんは、今は別の場所に居るんだ」
魂というものが実在するものとして、その所在も含めるのであれば、厳密には嘘ではないのかもしれない。でも、この言葉を伝えながら僅かに感じた失望は、この言葉が嘘であることを雄弁に語っていた。だから確かにこれは嘘つきの言葉だった。
「じゃあ、その売られちゃう家には今は誰も居ないんだ」
「そう、だけど見納めとかないとなって」
「うん、きっと大事なことよ」
見るとユリカの手には、あの箱が握られている。
一緒に来ようとしていること、そして俺の過去に記憶の手がかりを見出そうとしていることは明白だった。
「一緒に来るのか? 結構遠いし家で待ってても良いぞ?」
この次に来る言葉を半ば予想して、そして望みながら裏腹な言葉を吐く。
「ナオトくんが嫌じゃなかったら、一緒に行っても良いかな」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
「あ、馬鹿って言った!」
「はいはい、ごめんよ。じゃ、準備してくれ。多分、泊りになるから」
「行ってもいいんだ!」
「一人だと迷うかもしれないからな」
「何言ってるのよナオトくんの地元でしょ! でも任せてくれて良いわ!」
「あぁ頼んだ」
ユリカとの軽口の応酬に力を貰って、実家の見納めに行く覚悟が、ほんの少し、光の粒ほど僅かについた。しかし、0がたとえコンマの遥か先でも1になったことには確かな意味があるはずだった。
ユリカは早速荷物、と言っても、たった二着の服――いつかのパチンコで手に入れた金で買った同じような白いフリフリを紙袋にまとめている。
その姿に、一抹の申し訳なさ・・・のようなものを感じる。この旅が終わったら、何か贈り物でもしてやろうか。
家に帰ったら疲れているだろうからすぐに寝られるようにと躊躇いを言い訳に変えつつ部屋の掃除をして、ドアノブを掴んだ。
「何してるの? ナオトくん」
体の内に生じた僅かな覚悟をなんて簡単に見えなくする程度に躊躇が大きくなった。
このドアを開ければ、確かに俺は生家に辿り着くだろう。
でも、そこで見る光景――父さんと母さんが確かにいない風景に耐えきれるビジョンがまるで見えなかった。同時に、今、この機を逃してしまえば多分、永遠にその死を受け入れる機会がないことが分かる。
それは、すなわちユリカの期待を裏切ることを意味した。
「――やっぱり、やめとくか。遠いし、ただ家を見るだけなんて意味ないか」
「ダメだよ」
ユリカにしては強い口調だった。
「えっ・・・」
「きっと悲しむナオトくんをわたしは見たくない・・・かなって。ほら、顔に書いてるよ?」
そう、冗談めかして微笑むユリカ。
その顔に曖昧な楽観を貰って、再びドアノブを握りなおした。
†
俺の地元は遠い。
新幹線に乗って約3時間。そこからさらに特急列車に乗り換えてようやく到達する。
故郷に近づくにつれて視界は遠ざかった。ユリカは物珍しそうに車窓に夢中になっている。
一方俺は眠るでもなく目を閉じて、ただ思考にふけった。
地元に帰るのはあのお葬式以来三年ぶりだ。
あれ以来、帰る意味を失った故郷が、今こうして再び意味を持とうとしている。
――いや、あるいは意味なんてないのかもしれない。
でも、どうせ戻るのであれば、その空虚に何か価値を与えよう。数時間先の未来の中に、何らかの有意義さを期待した。
車掌は次の停車駅を告げる。覚悟の結実が迫っていた。




