第1話 幻影少女、現る
突如現れた謎の女の子の高らかな宣言に、俺の腐りかけた脳みそはあっさり限界を迎えた。
頭がぐわんと揺れる。急激な眠気が、視界の端からじわじわ広がっていく・・・。なるほど。理解した。
停滞したニートライフは俺の脳に幻覚を作り出してしまったらしい。いつか狂う日が来るとは思っていたけど、結構早かったな。朝はもう寝る時間だ。布団に向かって倒れ込むと、身体が強制終了するみたいに眠りに落ちた。
†
――久しぶりに、夢を見た。父さんと、母さんの夢。
夢の中の何気ない日常・・・実家のリビングで母さんと話す。話しているけど会話が頭に入らない、言葉が耳に届かないけれども会話している実感はあって、なんだか懐かしいような多幸感に包まれる。
父さんは顔を見せず、ベランダでタバコを吸っている。あー・・・タバコやめろよ、体に悪いだろ。母さんと父さんは確かに生きているんだって思った。
――あぁ、そろそろ目が覚める。
†
あれは幻覚の類だったに違いない。女の子が突然降ってくるなんてべたな妄想を作り出す独創性の無さを反省しながら体を起こす。
「ゴミまとめておいたけどいったん玄関に置いといて良い?」
・・・とりあえず歯磨くか。
相変わらずひどい顔だ。普通の人よりも長く寝ているはずなのに目の下のクマが一向に取れない。前髪がウザいなぁとか、でも切るのも面倒だなと思っていると、何やら香ばしい匂いがしてきた。
「さ、朝ご飯できたわよ! ってもうとっくにお昼じゃん!」
朝飯が置かれたちゃぶ台を見る。・・・パンと目玉焼きか。ご機嫌な朝食だ。
「さ、食べよ食べよ。良い一日は朝ご飯から!」
「いや・・・もうとっくに末期だったか」
諦め気味に呟いてから玄関に向かって歩く。
「エナドリでも飲めば治るかな」
とりあえずコンビニに行こう。もしかしたら病院にも行ったほうがいいかもしれない。目の端に映る幻覚をなるべく見ないようにしながらドアに手をかけた。
「ちょっとちょっと、どこ行くの! 朝ごはん食べなきゃだめだよー」
聞こえるはずのない声に耳をふさぎながら外に出る。昨日降った雨の泥濘に、踏まれて萎れた桜の花びらが溜まっていた。意気揚々と空を舞っても最後はこうなる。
コンビニは好きだ。接客されているようでされていない距離感が心地良い。お目当てのエナドリとカップ麺のストックをかごに満載してレジに向かう。
・・・しかしこの瞬間は少し緊張する。
「袋はお付けしますか?」
営業スマイルだとわかっていても思わず目をそらしてしまう。正面とも横とも取れない微妙な視線を向けつつ答える。
「・・・ふくろお願いします」
蚊の鳴くよりもさらに小さい声で所望する。
「人付き合い苦手そうだとは思ったけど、ここまでとはねぇ」
やかましい。こんなところまで憑いてくるな。
スマホで「幻覚 精神科 病院 近く」とか調べていると、保険適用がどうとか・・・保険証ねぇな。
ふらふら家に戻っていると、走っている子供が目に入った。平日だから、今は春休みなんだろう。俺はずっとお休みなんだぜと内心自慢していたら、子供がつまずいた。「あっ」と思っていると俺の横で金髪ツインテが風になびいた。
「あぶなーい! でもセーフ!」
子供を支える彼女。
「ありがとう・・・お姉ちゃん」
「気にしない気にしない! 人助けが趣味ですから!」
と、なぜか誇らしげに胸を張っている。悪い奴ではないようだ。それに、どうやら実体はあるらしい。
「幻覚じゃないのか」
独り言みたいに呟く。
「残念ながら、ナオトくんはいたって正気だから」
本当に? 実体があるなら、こいつはただの他人という事になる。数年ぶりの、それも女の子との会話に喉の奥が強張った。
「・・・狂ってでもいなけりゃ俺が女の子と話せるわけ・・・」
「幻覚でもなんでもなくてここにいるわたしは紛れもない現実よ!」
道路の真ん中で宣言する彼女を邪魔そうに避ける通行人たち。・・・幻覚じゃないなら、ただの不法侵入者じゃないか。
「あっ・・・そう。それじゃ」
早口で別れを告げる。
「いやいや、それじゃじゃないから。これから始まるから」
早めた足に当然のようについてこられる。
「ついてこないでくれ」
なるべく彼女の方を見ないで早歩きする。しかし彼女が歩みを止める気配はない。
「ねぇ待っててば! わ! た! し! 記憶ないの! なんでここにいるか分からないの!」
何を言っているんだこいつは。引き止めるにしてももうちょっとマシな嘘があるだろうに。
いよいよ走り出そうとした時、彼女の手が俺を捕らえた。勢いそのままに反転すると、息を切らす彼女の顔があった。
――二重で長いまつ毛。特徴的な薄い緑の瞳。そこにかかる金色の前髪。
ふと、暗い液晶に映った顔を思い出した。それによく似た顔が目の前にある。
なによりも俺の心をつかんで離さないのは、そのまつ毛だった。普通の人よりも長いそれは一つ動くたびにありありとその存在を幼い俺に伝え、そのたびに胸の奥をざわつかせた。
「・・・ユリカ?」
そんなはずないと理解しながら、気付けば、その名前が口からこぼれていた。
「ユリカ・・・ユリカ・・・うん! わたしはユリカ」
記憶を探るみたいに繰り返し呟いて、しっくり来たようにしながら答える不法侵入者・・・改めユリカ。
「・・・話くらいは聞いてやる」
人とのかかわりはなるべく少なく。それが絶対不動のポリシーだ。ただ、あの子の面影はそれに従うことを許さなかった。




