第3話 用途を変えた日
◆1 開業日の貼り紙
玄関のガラス戸に、美咲は貼り紙を貼り直した。少し右に傾いていたのが、朝から気になっていた。
三月二十日 開業いたします 汐見の宿
筆ペンの字は母のものだ。習字に通っていたのは五十年も前だというのに、母は一枚で書き上げ、「縁起物だから書き直さない」と言った。
ガラスの向こうで、海からの風が電線を鳴らしていた。駅から歩いて七分、坂を下りきった角に建つ三階建ての古いビルだ。外壁には、四十年掛かっていた「宮下税理士事務所」の看板の跡が、そこだけ白く四角く残っている。
一階の帳場の奥で、ミシンの音が止まった。
「美咲、三階の分、できたよ」
母が両腕にカーテンを抱えて出てきた。藍で染めた綿の布で、裾に白い糸で波の模様が縫い込んである。客室が八つ、帳場とラウンジの窓を入れて、母はこの冬だけで三十枚近くを縫った。六十七にもなって夜なべなんかするものじゃないと言っても、聞かなかった。
「お客さんが朝、カーテンを開けたとき、最初に見るのがこれなんだから」
美咲は母と一緒に階段を上がった。建物の中に階段は一つしかない。事務所だったころの狭くて急な階段に、手すりだけは新しいものを付けた。
東京の旅行会社を辞めたのは、去年の春だった。十五年、人の旅の段取りばかりしてきた。父が亡くなって一人になった母の町に戻り、空いていたこのビルを見つけたとき、二階と三階の窓から海が見えることに気づいた。八十を過ぎて事務所をたたんだ宮下さんは、「人が泊まるなら、建物も喜ぶ」と言って、相場より安く売ってくれた。
予約の問い合わせは、もう六組来ている。開業まで、あと五週間だった。
事務所の看板を下ろしたのは、去年の秋だった。建築士の村井さんが用途を変える手続きを出す前に、二人で消防署の予防係へ相談に行った。宿にするなら、火災報知設備、誘導灯、消火器。三階には避難器具。窓のカーテンは燃えにくいものに。予防係の杉浦という女性は、図面に鉛筆で丸を付けながら、一つずつ丁寧に説明してくれた。母の布は厚手の綿だから大丈夫だろうと、美咲はそのとき聞き流した。
設備の工事は、町の電気屋の小野さんが引き受けてくれていた。宮下さんの事務所の蛍光灯を四十年替えてきた人で、「この建物の配線なら目をつぶっても分かる」と笑い、見積もりは年明けに出すと言っていた。その小野さんが、正月に脚立から落ちて腰の骨を折った。村井さんが隣の市の設備業者を探し当て、図面を送ったのが三週間前だった。
三階の窓にカーテンを掛け終えたとき、美咲の携帯電話が鳴った。その業者からだった。
「見積もり、メールでお送りしました。……それと、工期なんですが」
業者は申し訳なさそうに、電話口で続けた。
「三階建てで階段が一つの建物だと、無線の簡単な報知器は使えない決まりなんです。全部の部屋と階段に線を通すことになります。年度末の現場が重なっていて、終わるのは四月の半ばです」
メールを開くと、合計の欄に四百十二万円とあった。
開業に間に合わない。
母に聞こえないよう、美咲は廊下の端で宮下さんに電話をかけた。責めるつもりはなかった。ただ、知っていたのかどうかだけ、確かめたかった。
「消防?」電話の向こうで、宮下さんは不思議そうに言った。「わしのときは、四十年、何も言われなかったよ」
嘘を言っている声ではなかった。それが、かえってこたえた。
母に話せないまま夕方になり、美咲は二軒先の旅館を訪ねた。この町で三十年宿を続けてきた女将は、開業の挨拶に行ったとき、困ったらいつでもおいでと言ってくれていた。見積もりを見せると、女将は眼鏡を額に上げて黙りこみ、それから帳場の電話を取った。
「柏木さん? うちの点検の。……ちょっと、見てもらいたい宿があるのよ」
二日後の朝、柏木は痩せた男を連れてやってきた。年に二度、旅館の火災報知器を見に来る白髪の点検員で、もとは消防署にいたという。柏木は玄関で短く挨拶を済ませると、奥の狭い階段を見上げた。
「階段は、これ一つきりか」
美咲がうなずくと、柏木は連れの男を振り返った。男は名刺を差し出して頭を下げた。行政書士、鳴海透とあった。
美咲が見積もりと工期の話をするあいだ、鳴海は口を挟まずに聞いていた。話し終えると、玄関の窓に掛けた藍のカーテンに目を向けた。
「このカーテンは、どなたが縫われたんですか」
帳場の奥から、母が顔を出した。「私ですけど」
「少し、見せていただいてもいいですか」
母がうなずくのを待って、鳴海は裾を指でつまんだ。布の目を確かめるように、ゆっくりとこすった。
◆2 用途を変えた日
一階のラウンジは、まだ椅子にビニールが掛かったままだった。美咲は窓ぎわのテーブルに、見積書と図面、去年の秋に予防係で書きとめたメモを並べた。見積書のいちばん上には、四百十二万円の数字が太く刷られている。
鳴海は一枚ずつ、黙って読んだ。窓の外では、坂の下の防波堤に白い波が当たっていた。
柏木は見積書の二枚目を横からのぞきこみ、短く息を吐いた。
「階段が一つで、三階に客を泊める。それなら線を引くしかない。……俺も、聞いたときはそう思った」
それきり、柏木は窓のほうを向いた。
「前の持ち主の宮下さんに、電話したんです」
美咲は言った。言うつもりはなかったのに、口から出た。
「四十年、消防に何も言われなかったって。……知っていて、黙って売ったんでしょうか」
鳴海はメモから顔を上げた。
「宮下さんは、本当のことを言っていると思います。この広さの事務所なら、消防の決まりで求められるものは、そう多くありません。四十年何も言われなかったのは、そのためです」
鳴海は図面の表紙を指で示した。用途の欄に、村井さんの字で「簡易宿所」とある。
「人が泊まる建物に変えた日に、ここは消防の上では別の建物になりました。眠っている人は、煙に気づくのが遅い。だから、人が泊まる建物には、建てた年に関係なく、今の決まりがそのままかかります」
変えた日。
美咲は、去年の秋の朝を思い出した。脚立に上った業者が、外壁の看板のボルトを一本ずつ外していった。「宮下税理士事務所」の金文字が下ろされると、壁にはそこだけ白い四角が残った。宮下さんは道の向かいでそれを見上げて、「四十年、ご苦労さん」と看板に言った。美咲は、新しい暮らしが始まる日だと思って、写真を撮った。
あの日に変えたのは、自分だった。
疑ってしまった、と美咲は思った。責めるつもりはないと言いながら、どこかで、あの人を疑っていた。
「それから、カーテンです」
母が、帳場の奥から盆を持って出てきた。お茶を淹れてきたらしい。
「人が泊まる宿の窓には、燃えにくい性能のあるカーテンを掛けることになっています。防炎といいます。そういうカーテンには、そのしるしの小さなラベルが付いています」
鳴海は母のほうを向いた。
「この布は、どちらで買われましたか」
「駅前の生地屋さん」母は盆をテーブルに置いた。「いちばんいい綿をくださいって。お客さんの肌に触れるものだから」
「ラベルは、付いていませんでしたね」
母は答えなかった。答える前に、分かったようだった。
美咲は、予防係の机を思い出した。杉浦さんの鉛筆が、図面の窓の上で小さな丸を描いた。あのあと、母が冬じゅう夜なべでミシンを踏むのを、自分は止めなかった。厚い、薄いの話ではなかったのだ。
母の縫ったカーテンは、ふつうの綿だった。
何か言わなければと思った。言葉が、一つも出てこなかった。
母は湯呑みを三つ並べ終えると、何も言わずに階段のほうへ歩いていった。手すりにつかまって、一段ずつ上っていく。やがて三階から、カーテンレールの金具が外れる、小さな乾いた音が聞こえてきた。
一つ。また一つ。
鳴海が立ち上がり、階段の下まで行った。
「お母さん。外すのは、少し待ってください」
上の音が止まった。
◆3 おととしの夏
鳴海は階段を数段上がり、三階に向かって言った。
「綿なら、後から燃えにくくする加工ができるはずです。染め方や織り方で変わるので、確かめさせてください。外すのは、それからにしてください」
しばらくして、母が下りてきた。手に、裁ち落としの端切れを一枚持っている。
「同じ布です」
鳴海は端切れを受け取ると、窓の光に透かし、携帯電話で写真を撮って、どこかへ送った。母は帳場のミシンの前に戻り、黙って糸くずを拾いはじめた。
昼を過ぎても、鳴海はラウンジのテーブルを離れなかった。
見積書は七枚あった。一枚目に合計、二枚目から機器の一覧と数、配線の長さ、工事の手間。鳴海はそれを一行ずつ指でたどり、ときどき図面の上の部屋と見比べた。美咲は向かいに座ったまま、何度もお茶を淹れなおした。
最後の一枚は備考の欄で、漢字ばかりが長く続く一行があるだけだった。鳴海の指が、そこで止まった。
――本物件は特定一階段等防火対象物に該当するため、特定小規模施設用自動火災報知設備は設置不可。
鳴海は鞄からノートパソコンを出し、法令の画面を開いた。条文が縦に長く続いている。上から下まで読み、いちばん下までいくと、改正の履歴を開いて、日付を一つずつ確かめた。
「特定一階段等、というのは」と美咲は聞いた。
「三階以上に人の泊まる部屋があって、屋内の階段が一つしかない建物のことです。火が出たら、その一本の階段が煙でふさがれる。逃げ道がなくなる」
鳴海は画面を美咲のほうへ向けた。
「後ろの長い名前が、業者さんの言っていた報知器です。小さな建物のための報知器で、配線の要らない無線の型も使えます。前は、こういう階段一つの建物には使えませんでした」
「前は?」
「その決まりは、おととしの夏に変わっています。階段一つの建物でも、延べ面積が三百平方メートルに届かなければ、使えるようになりました。その代わり、階段にも感知器を付ける。無線で感知器どうしをつなぐなら、どの階が燃えているかを声で知らせる型にする」
柏木が画面をのぞきこみ、短く笑った。
「業者を責められん」
美咲は図面の表紙を見た。延べ面積の欄の数字は、三百より少し小さかった。
「じゃあ」
「図面の上では、です。四十年使った建物は、図面にない床が増えていることがあります。ベランダを囲ったり、屋上に物置を足したり。一つでも増えていて三百を超えたら、この話は消えます」
日が傾くまで、三人で建物じゅうを歩いた。鳴海は部屋の形を写し取る小さな機械を回しながら、図面と一部屋ずつ見比べていく。裏のベランダに出て手すりを確かめ、屋上の階段室の扉を開けた。
柏木は、別のものを見ていた。階段の踊り場で立ち止まり、足もとを靴の先で叩く。
「床はコンクリートか」柏木は鳴海を振り返った。「鉄骨で床がコンクリートだと、無線は階をまたぐと弱る。小さな宿で無線のを点検してると、三階の感知器の声だけが一階に届かんことがある。中継器が要るかもしれんぞ」
「業者さんに、電波を測ってもらいましょう」
「中継器を付けるなら、資格のいる工事になる。消防への着工の届けも要る」柏木は階段を見上げた。「日取りは、そこから逆算だ」
ラウンジに戻ると、窓の外の海が、夕方の色に変わりはじめていた。鳴海は図面を閉じた。
「図面にない床は、ありません。三百に、届きません」
海の音が、急に耳に戻ってきた。
宮下さんは、四十年、この建物に何も足さなかったのだ。美咲はそう思った。看板を下ろした朝、壁に残った白い四角を見上げていた背中を思い出した。
「三月二十日には」
「届けの日数を入れても、線を引かない型なら、工事は短く済みます。業者さんにこの改正を見てもらって、見積もりを出し直してもらいましょう。明日、杉浦さんのところへ一緒に相談に行きます。決めるのは、消防署です」
鳴海の携帯電話が、短く鳴った。画面を見て、鳴海は帳場のほうへ歩いていった。
「お母さん。さっきの布ですが、加工できるそうです。加工したしるしのラベルを付けて、戻ってきます」
ミシンの前で、母の手が止まった。
「縫い直さなくて、いいの」
「縫い目は、そのままで」
鳴海は少し間を置いた。
「ただ、この加工だと、洗うと効き目が落ちます。洗ったら、また加工に出すことになります」
母は、ふっと笑った。
「洗うたびに出せばいいのね。それくらい、なんでもない」
母は立ち上がり、手すりにつかまって階段を上っていった。やがて三階から、カーテンレールの金具が外れる音が聞こえてきた。一つ。また一つ。朝と同じ音なのに、違って聞こえた。
美咲も階段を上がった。母と並んで、外したカーテンを畳んだ。裾の波の模様が、内側になるように。
◆4 適合通知書
翌朝、予防係の窓口で、杉浦は鳴海の持ってきた紙を最後の一枚まで黙って読んだ。改正の条文の写しと、建物を測り直した結果の表だった。去年の秋と同じ机で、同じ鉛筆を持っていた。
「改正のあと、この形で出てくるのは、うちではこれが初めてです」
杉浦は顔を上げ、美咲を見た。
「無線の型で進めてください。中継器と三階の避難はしごは、資格のある人の工事になりますから、工事の前の届けが要ります。付けた後にも届けを出してもらって、検査をします。検査では、三階の声が一階まで届くかを聞かせてもらいます」
それから、図面の窓の上に去年付けた鉛筆の丸を、指で一つずつ押さえた。
「カーテンは、ラベルの付いたもので見せてください。適合通知書の申請も、検査と一緒に出しておいてください。宿として使ってよい建物だと、消防が認める紙です。保健所の許可には、それが要りますから」
帰りの車の中で、美咲はノートを開いた。十五年、人の旅の段取りを組んできた。飛行機の出る時刻から逆に数えて、何時に宿を出て、何時に起きるかを決める。それと同じだった。
三月二十日から、逆に数える。保健所の許可の前に、消防の通知。その前に、検査。その前に、工事。工事の前の届けは十日前。一行ずつ日付を書き込むと、ページの下に、四日だけ余白が残った。
「業者さんの都合で一日二日ずれても、間に合います」と鳴海は言った。
隣の市の業者は、その日の夕方に電話をくれた。改正の通知を読んだと言い、少し黙ってから、「申し訳ありませんでした」と言った。三日後、若い技術者が来て電波を測り、二階の踊り場の壁に中継器を付けると決めていった。見積もりは、百四十万円ほどになった。
工事の日、柏木が来た。点検の帰りだと言って、技術者が三階の天井に感知器を付けるのを、階段の下から黙って見上げていた。昼過ぎには、腰にコルセットを巻いた小野さんが杖をついてやってきて、踊り場の壁を拳で叩き、「そこの裏は空いてる。ねじは効くよ」と技術者に教えた。
加工に出していたカーテンが戻ってきたのは、検査の二日前だった。段ボール箱を開けると、藍の布の裾の裏に、小さな白いラベルが一枚ずつ縫い付けてあった。母はそれを一枚ずつ指でなぞってから、残らず自分で掛けて回った。
検査の日は、朝から雨が上がって、海が明るかった。
杉浦は若い職員を一人連れてきた。鳴海は図面を抱え、少し後ろからついて歩いた。一階から順に上がっていく。帳場の脇の消火器の、針の位置を確かめた。廊下の誘導灯の緑を見上げた。三階の窓を開け、窓の下の箱のふたを持ち上げた。ふたを開ければ、そのままはしごが下の路地まで伸びる型だった。杉浦は留め金に手を掛け、外の路地までの高さを目で測った。
それから、客室の窓のカーテンの裾を持ち上げ、ラベルを裏返した。
母は廊下の端で、両手を前で組んで立っていた。
杉浦はラベルを元に戻し、何も言わずに次の部屋へ行った。母の肩から、少しだけ力が抜けた。
「では、これを」
三階の奥の客室で、杉浦が天井を指さした。技術者が、長い竿の先に、煙に似たものを吹きかける筒を付けて伸ばし、感知器にかぶせた。
美咲は、柏木と一階の階段の下にいた。柏木が、ここで聞くと言ったのだ。
数秒、何も起きなかった。
それから、頭の上の天井で、低い警報音が鳴りだした。帳場の天井でも、ラウンジの天井でも。音が止むと、落ち着いた女の人の声が、建物じゅうから重なって聞こえた。
――三階で、火事です。
柏木は、階段を見上げたまま、短く息を吐いた。
「届いたな」
それだけ言って、柏木は階段の手すりに手を置いた。この人も、線を引くしかないと思っていたのだ。美咲はそう思った。
――三階で、火事です。
声は、もう一度繰り返した。三階の廊下で、母もこの声を聞いている。美咲はそう思った。
階段を下りてきた杉浦が、若い職員に言った。
「眠っている人を起こすのは、この声だから」
検査から一週間ほどして、申請していた適合通知書が届いた。消防署長の名前の入った、紙一枚だった。美咲はそれを、前から出してあった保健所の許可の申請に添えた。三月の半ばに、旅館業の許可が下りた。
ノートの余白の四日は、二日だけ使った。
三月二十日の朝、美咲は玄関のガラス戸の貼り紙を外した。何度貼り直しても、少し右に傾いていた。外して手に取ってみて、母の字そのものが、少し右に上がっていたのだと、そのとき気づいた。
最初のお客さんは、昼過ぎに来る。東京から来る、年配の夫婦だった。母は朝から帳場の奥で湯呑みを拭いている。
玄関の戸が開いた。
宮下さんだった。白い花の小さな束を、両手で持っていた。
「開業の日だと、聞いたもんでね」
美咲は花を受け取った。言わなければならないことがあった。
「宮下さん。あのときは、電話で、確かめるようなことを――」
宮下さんは首を振った。それから、ラウンジの窓のほうを見た。
「わしのときは、窓はブラインドだったよ。四十年、一度も開けなかった」
藍のカーテンが、細く開けた窓から入る海風に、ゆっくりとふくらんでいた。裾の白い波の模様が、本物の波と同じ間合いで揺れた。
「いい布だ」と宮下さんは言った。
帳場の奥で、母が顔を上げた。
この物語はフィクションです。物語の解決策は、個々の建物にそのまま当てはまるものではありません。
次の話「第3話 解説」では、鳴海の解き方が現実の消防法でも通るのかを、行政書士の小川洋史が解説します。
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