第3話 解説 「四十年、何も言われなかった」建物が宿になる日
「わしのときは、四十年、何も言われなかったよ」。前の持ち主の宮下さんは、嘘をついていませんでした。それでも美咲の宿には、四百万円を超える見積もりが届きました。
行政書士の小川洋史です。第3話で鳴海がしたことが、現実の消防法でも通るのかを解説します。物語はフィクションですが、条文は本物です。
◆1 宿に変えた日に、今の基準がかかる
古い建物は、消火器や避難器具など一部の設備を除けば、建てたときの基準のままでよいのがふつうです。建物の使い方を変えても、原則は変わりません。
ただし、変えた先が宿や飲食店、病院のように、知らない人が出入りしたり眠ったりする使い方なら、話が違います。建てた年に関係なく、今の基準に全部合わせます。第2話の焼き鳥屋が今の基準を求められたのと同じ理屈です。
物語の建物(3階建て・延べ約280㎡・逃げるのに使える階段は屋内に一つ)に限って、要る設備を比べてみます。
自動火災報知設備:事務所のとき 要らない/宿にしてから 要る(宿は面積にかかわらず)
誘導灯:事務所のとき 要らない(窓のある普通の階なら)/宿にしてから 要る
消火器:事務所のとき 3階に要る(床面積50㎡以上の階)/宿にしてから 建物全体に要る(延べ150㎡以上の宿)
避難器具:事務所のとき 3階に10人以上いれば要る/宿にしてから 3階に要る(3階に10人以上泊まるので)
カーテンの防炎:事務所のとき 要らない/宿にしてから 要る
宮下さんの事務所でも、消火器などは要りました。現実で「何も言われなかった」と聞いたら、点検の記録で確かめるのが安全です。
◆2 階段が一つしかない建物
3階以上の階に宿などがあり、逃げるのに使える階段が屋内に一つしかない建物は、「特定一階段等防火対象物」と呼ばれます。その一本の階段が煙でふさがれると、逃げ道がなくなるからです。
宿なので、火災報知設備はもともと要ります。階段が一つの建物では、それに加えて、報知設備の種類と避難器具に条件が付きます。避難器具は、すぐ使える形のもの(ふたを開ければそのまま下まで伸びるはしごなど)にするか、バルコニーなど使いやすい場所に置きます。
◆3 2024年夏の改正(物語の時点で「おととしの夏」)
小さな建物向けの、簡易な火災報知設備があります(「特定小規模施設用自動火災報知設備」)。延べ面積300㎡未満の宿などで使え、配線の要らない無線式・電池式も選べます。
ただ、2024年7月23日の改正までは、3階に客室があって階段が一つの建物では、原則として使えませんでした。物語の業者さんは、改正前の知識のまま「使えない」と言ったわけです。
改正後は、こうした建物でも300㎡未満なら使えます。そのかわり、次の条件が付きます。
・階段や廊下などにも感知器を付ける
・火事を知らせる区域が二つ以上ある建物で、親機を置かずに感知器どうしを無線でつなぐなら、どの階が火事かを声で知らせる型にする(物語の「三階で、火事です」)
全部の部屋に線を通さずに済むので、工事の費用も日数も小さくなります。
電波が階をまたいで届きにくいときは、電波を中継する小さな機械(中継器)を付けます。中継器を付ける工事は、消防設備士の資格がなければできません。工事を始める10日前までに、工事の前の届けも出します。柏木が「日取りは、そこから逆算だ」と言ったのは、このためです。ふたを開けて伸びる型の避難はしごの取り付けも、同じように資格と届けが要ります。
◆4 カーテンは「燃えにくい」性能とラベル
宿の窓のカーテンには、燃えにくい性能(防炎性能)が要ります。性能のあるものには、それを示すラベルが付いています。生地屋さんで買ったふつうの布には、厚くても薄くても、ラベルはありません。
綿のような素材は、後から燃えにくくする加工ができる場合があります。加工したものには「防炎処理品」のラベルが付きます。ただし、洗濯すると効き目が落ちる加工では、洗ったら加工し直します。加工できるかどうかは染め方や織り方でも変わるので、業者に確かめます。
◆5 開業までの順番
美咲がノートに逆に書き込んだのは、次の流れです。
1 工事の前の届け(工事を始める10日前まで)
2 工事
3 付けた後の届けと、消防の検査
4 宿として使い始める前の届け(市町村の火災予防条例による)
5 適合通知書(宿として消防の基準に合っていることを示す書類。申請して受け取る)
6 保健所の旅館業の許可(申請は前もって出しておき、適合通知書を添える)
これと並んで、建築士が建築基準法の用途変更の手続きを進めます。消防の届けと検査だけでも、3週間ほどは見ておくのが安全です。
◆6 鳴海の解き方は、現実でも通るのか
条件がそろえば、通ります。物語の宿の場合、次の四つが必要です。
・延べ面積が300㎡未満であること(図面にない増築がないこと)
・階段や廊下の感知器、声で火事の階を知らせる型の感知器など、改正後の条件を満たすこと
・中継器や避難はしごの工事は資格のある消防設備士が行い、工事の前の届けを出すこと
・建物そのものが、3階を宿に使える造り(耐火の造り)であること。物語の建物は鉄骨の耐火建築物でした
鳴海が建物を歩いたのは、図面にない床が増えていないかを見るためです。延べ面積そのものは壁の中心線で測る決まりなので、数字は図面と、建てたときの書類で確かめます。最後に決めるのは消防署です。
この解説の根拠条文(2026年11月時点)
・古い建物と用途変更:消防法17条の2の5第1項、17条の3第1項・2項4号、施行令34条
・自動火災報知設備:施行令21条1項1号イ・7号
・特定一階段等防火対象物:施行規則23条4項7号ヘ
・消火器:施行令10条1項2号イ・5号
・避難器具:施行令25条1項5号、施行規則27条1項1号
・誘導灯:施行令26条1項
・防炎:消防法8条の3、施行令4条の3、施行規則4条の4第9項
・特定小規模施設用自動火災報知設備:平成20年総務省令156号(令和6年総務省令74号による改正)、令和6年7月23日消防予第363号、受信機を置かない型の音声:昭和56年自治省令17号8条18号
・消防設備士の工事と工事の前の届け:消防法17条の5、17条の14、施行令36条の2、施行規則33条の18、平成16年消防庁告示第14号・第15号
・付けた後の届けと検査:消防法17条の3の2、施行令35条1項、施行規則31条の3第1項
・使い始める前の届け:各市町村の火災予防条例
・建物の造りと用途変更の手続き:建築基準法27条、87条1項、6条1項1号
・床面積の測り方:建築基準法施行令2条1項3号・4号
次は「第4話 立退料では足りない」です(準備中)。
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