第2話 窓のない階
◆1 看板の窓
「あの看板を外せと言ってるんだ」
閉店まぎわの「炭火焼鳥 けんた」で、柴田正造の声は思ったより大きく響いた。カウンターの奥で串を洗っていた健太が、手を止めた。最後の客が二人、気まずそうに勘定を置いて出ていく。
「外したら、店がなくなります」
健太は調理服の袖で手を拭きながら言った。三十二歳。三年前、前の店をつぶしたばかりだと正直に言って、このビルの二階を借りに来た男だった。
「二階に上がる客は、あの看板を見て来るんです。駅から見えるのは、あれだけなんです」
「消防は、あの看板のせいで窓がないと言ってるんだぞ」
言ってから、柴田は自分の言葉がどこまで正しいのか分からなくなった。
駅前の柴田ビルは、父が昭和の終わりに建てた四階建てだ。継いでから二十年になる。去年の秋、消防署の立入検査があった。職員は二階に長くいて、窓を外から見て、中から見て、何かを測っていった。後日の通知には「無窓階」という知らない言葉があり、年が明けると警告書が来た。そして先週、命令書が届いた。二階に屋内消火栓設備を設置すること。期限は四か月後。
見積もりは千二百万円だった。消火栓に水を送るポンプと水槽、古いビルの中を縫う配管。家賃を全部つぎこんでも、何年もかかる。従わなければ、建物の使用を止められることもあると、予防課の職員は電話で丁寧に言った。一階の不動産屋も、三階の英会話教室も、巻き込むかもしれない。
柴田は店を出て、階段を下りた。来週、弁護士に会う約束をしている。健太に出ていってもらえるかを聞くためだ。ただ、不動産屋には先に言われていた。店を貸している以上、よほどの理由がなければ、こちらから契約を終わらせるのは難しい。家賃は一度も遅れていない。看板を付けたいと言われたときも、いいよと言ったのは自分だった。それがまた、腹立たしかった。
通りに出ると、向かいのコンビニの前に二つの人影があった。一人は白髪の柏木だった。年に二度、このビルの火災報知器の点検に来る男で、もとは消防署にいたと聞いている。命令書の話をしたら、知り合いを連れてくると言っていた。
「夜に来いと言われてな」と柏木は言った。「看板に灯が入っているところを見たいんだそうだ」
隣の男は、巻き尺を手にしていた。痩せていて、足もとに黒いケースを置いている。
「鳴海です」
男はそれだけ言って、柴田ビルの二階を見た。
黒地に白い筆文字の看板が、窓という窓をふさいでいる。裏の電球が文字を夜の通りに浮かび上がらせ、ガラスは一枚も見えない。軒先では、赤いちょうちんが三つ揺れていた。
鳴海は、看板を長いあいだ見ていた。それから、ゆっくりと目を横へ移した。ビルの脇の、人ひとりがやっと通れる路地だった。地面には、エアコンの室外機の箱がビルの壁ぎわにいくつも並び、ゴミ箱がその隙間を埋めている。二階の店の分だった。
コンビニの自動ドアが、何度か開いて閉じた。
「横にも、窓がありますね」と鳴海は言った。
柴田は路地を見上げた。言われてみれば、室外機の上、二階の横の壁にも窓が並んでいる。路地の入口を室外機とゴミ箱がふさいでから、奥へ入ることもなくなり、その窓を見上げたこともなかった。
「あの看板さえなければ、済む話じゃないんですか」
鳴海は、路地から目を離さなかった。
「看板を外しても、たぶん、この階は窓のない階のままです」
◆2 窓のない階
店の明かりが半分落ちたころ、健太が階段の上から顔を出した。柴田の後ろに、点検でなじみの柏木と、見知らぬ男がいる。健太は身構えるように肩を固くした。
「中を見せていただけますか」と鳴海は言った。「窓を、内側から」
健太は柴田の顔をうかがった。柴田は黙ってうなずいた。
店の中には、炭と脂の匂いが残っていた。通りに面した壁ぎわに、四人掛けのテーブルが五つ並んでいる。その一つ一つの横に窓がある。窓のすぐ外に看板の裏板が迫っていて、ガラスの向こうは真っ暗だった。
鳴海は窓の一枚に顔を寄せ、懐中電灯でガラスを照らした。光の中に、細い金網の目が浮かび上がった。
「網入りガラスです」
「それが、何か」と柴田が言った。
「消防が数える窓は、明かりや風を入れる窓ではありません。火事のとき、中の人が逃げ出せて、外から消防隊が入ってこられる穴のことです」
鳴海はガラスを指の背で軽く叩いた。
「網の入ったガラスは、外から割って入るのに手間がかかります。この窓の外は、通りの上の宙です。隊員が立って割る足場もない。だから消防の数え方では、この五枚は窓に入りません」
柴田は、看板の裏板とガラスのわずかな隙間を見つめた。網入りにしたのは父だった。割れたガラスが通りの人に落ちたら危ない、と言って。
「じゃあ、看板は……」
「この五枚は、建ったときから数に入っていなかったはずです」
「待ってください」と柴田は言った。「このビルは三十年以上、何も言われなかった。父の代からです。窓がない階だなんて、去年初めて聞いたんですよ」
「そこです」
鳴海は懐中電灯を下ろした。
「それでも、ずっと窓のない階ではなかった。別の窓が、この階の窓の役目を果たしていたはずです。それが、どこかで果たせなくなった」
店の中がしんとした。換気扇だけが、かすかな音で回っていた。
「点検で見るのは、設備だ」
口を開いたのは柏木だった。壁にもたれたまま、天井の火災報知器を見上げている。
「感知器が鳴るか、消火器の圧が落ちていないか。窓は点検表に無い。点検の帰りは、横の路地を抜けて裏の駐車場に戻っていた。三年ほど前から、通れなくなった」
柏木は少し黙った。
「窓と結びつけたのは、命令書の話を聞いてからだ。予防課にいたころなら、真っ先に路地を見たんだがな」
鳴海は答えず、柏木を一度だけ見た。
三年前。健太がこの店を開いた年だった。室外機をどこに置けばいいかと聞かれたのも、その年だった。柴田は、そこで考えるのをやめた。
「三年前って、うちのことですか」
健太の声はかすれていた。カウンターの縁を両手でつかんでいる。
「あの看板が、うちの命綱なんです。前の店は、路地の奥の二階でした。誰にも見つけてもらえなくて、一年でつぶれた。だから今度は、駅から見える看板にしようって。それだけは決めてたんです」
一年でつぶれた、という言葉に、柴田は目をそらした。
鳴海は健太のほうを向いた。その晩初めて、鳴海は人の顔をまっすぐ見た。
「看板は、たぶん関係ありません」
健太は、きょとんとした。
鳴海は店の奥へ歩いた。厨房の脇を抜けると、路地側の壁に、背の高い窓が並んでいた。表の窓より、ずっと大きい。ガラスに網は入っていない。いちばん手前の窓の前には、ビールケースが腰の高さまで積まれていた。
窓の下、路地の底で、室外機のファンが低くうなっていた。
◆3 一メートルの路地
翌日の昼、健太が仕込みのために店へ来ると、路地の入口に鳴海がしゃがみこんでいた。
巻き尺の先を外壁に当て、もう片方の端を、隣の家の塀まで伸ばしている。足もとの黒いケースは開いていて、三脚に載った小さな機械が、路地の奥に向かって首を振っていた。
「何を、測ってるんですか」
「この路地の、人が通れる幅です」と鳴海は言った。「隣の塀まで、物のない幅がどれだけあるか。表の道に出るまでのあいだで、いちばん狭いところで決まります」
健太は路地を見た。昼の光の中で見ると、ひどいありさまだった。壁ぎわに室外機が三台、肩を寄せ合うように並び、その並びにゴミ箱が四つ。夏のあいだ、ここには熱い風が溜まって、厨房の冷房はいつも効きが悪かった。
鳴海は室外機の角から塀まで巻き尺を渡し、目盛りを読んだ。
「八十二センチ」
それから、室外機のない奥の方へ歩いて、もう一度測る。
「こちらは、一メートル二十」
鳴海は巻き尺を巻き取りながら、二階の窓を見上げた。昨夜、店の奥で見た大きな窓が、路地に向かって並んでいる。
「あの窓の外に一メートルの通り道があれば、消防の数え方ではあれも窓に入ります。人が逃げ出せて、隊員が入ってこられる。この階は、窓のない階ではなくなる」
「一メートル……」
「建ったときは、たぶん、あったはずです」
健太は、室外機を見た。三年前、開店の工事のときに、業者と一緒にここへ運び込んだ。表の通りに並べていいかと聞きに行くと、柴田は首を振った。
――表に並べたら見苦しい。横の路地に置いとけ。
健太は言われたとおりにした。ゴミ箱も、その横に並べた。表を汚さないのが、借りる者の礼儀だと思った。
「これを置いたのは、俺です」と健太は言った。どこまで言えばいいのか、分からなかった。
鳴海は三脚をたたみながら答えた。
「誰が置いたかは、消防には関係ありません。どこにあるかだけです」
その夜、店を閉めたあと、健太は路地に出た。
ゴミ箱の蓋を一つずつ確かめていると、表の通りから足音がした。柴田だった。手に缶コーヒーを二本持っている。
柴田は一本を健太に渡すと、自分は路地の入口の壁にもたれた。しばらく、どちらも何も言わなかった。
「置けと言ったのは、俺だ」
柴田が先に言った。
「覚えてたんですか」
「昨日の晩、思い出した」柴田は缶を開けずに、手の中で転がした。「思い出して、考えるのをやめた。情けない話だ」
柴田は缶を見つめたまま続けた。
「三十のとき、一階で喫茶店をやった。親父のビルだからと、甘く見てな。二年でつぶした。親父は、何も言わなかった。看板を出したいと言ったら、いいよと言った。表にテーブルを出したいと言ったら、それもいいよと言った」
柴田は、二階の窓を見上げた。
「お前が三年前に来たとき、あのころの自分に、少し似てると思った。だから貸した。それなのに、消防から通知が来たら、真っ先に看板のせいにした。看板のせいにしておけば、自分の言ったことを思い出さずに済んだ」
路地の奥で、隣の家の犬が一度だけ吠えた。
健太は、室外機の天板に手を置いた。ほんのりと熱が残っている。
「室外機、屋上に上げます」
柴田がこちらを見た。
「ここ、夏は熱がこもって、厨房がちっとも冷えなかったんです。上に上げたほうが、たぶん電気代も下がる。ゴミ箱は、裏の駐車場の隅に移します。窓の前のビールケースも、片づけます」
柴田は長いあいだ黙っていた。それから、ようやく缶コーヒーを開けた。
「工事の金は、半分出す」
「いいんですか」
「置けと言ったのは、俺だ」
柴田はそれだけ言って、缶を傾けた。
健太は路地を見渡した。室外機とゴミ箱をどけたら、昔のここはどんな道だったのだろう。若い柴田が、喫茶店の裏口から自転車を押して通った道だったのかもしれない。
見上げると、二階の窓は暗かった。ガラスの向こうに、ビールケースの影だけが見えた。
◆4 路地の灯
予防課の机の向こうにいたのは、宮本という若い職員だった。電話で丁寧に話した、あの声だった。
鳴海が持ってきた図面を、宮本は机いっぱいに広げた。路地の幅を書き込んだ平面図。室外機とゴミ箱のあった場所と、移す先。路地を測った無数の点を、上から見下ろした絵。柴田と健太は、並んで座っていた。
宮本は図面の路地に指を置き、柴田のほうを向いた。
「お電話では、うまくお伝えできなかったかもしれません。検査の結果の通知にも、横の路地の幅のことは書き添えたんですが」
柴田は、膝の上で手を組み直した。
「読みました。読んだはずです。でも、看板のことだと思い込んでいました」
宮本は責めるでもなく、小さくうなずいた。
「その路地を、ずっと一メートル以上に保てますか」
「保ちます」
柴田が答えた。自分でも驚くほど、すぐに声が出た。
鳴海が続けた。「路地は、柴田さんの敷地の中です。室外機は来週、屋上に上げます。ゴミ箱は裏の駐車場に移しました。路地に物を置かないことは、お二人のあいだで覚書にします。案は私が作ります。中身は、お二人が決めたとおりに」
「来週、弁護士に会うことになっています」と柴田は言った。「そこで、見てもらいます」
健太を追い出す相談のために取った約束だった。柴田は、それ以上は言わなかった。
「店の中の窓の前も、空けておけますか」
宮本の二つ目の問いには、健太が答えた。
「ビールケースは、もう片づけました。窓の前には、何も置きません」
宮本は図面をたたむと、柴田に向かって言った。
「工事が終わったら、現地で私にも測らせてください。そのうえで、あらためて判断します」
柴田は、肩から何かが少しずつ下りていくのを感じた。
帰りの階段を、柴田と健太は並んで下りた。どちらからともなく、歩く速さが揃っていた。
*
三週間後の夜。
向かいのコンビニの前から、柴田は自分のビルを見上げていた。
先週、宮本がもう一度来て、路地に巻き尺を当てていった。何も言わずに測り終え、帰りぎわに一度だけ、横の窓を見上げていた。
二階の看板には、いつものように灯が入っている。黒地に白い筆文字。赤いちょうちんが三つ。表の窓は、相変わらず看板の裏で、父の選んだ網入りガラスのままだ。
ビルの脇へ歩いた。
路地には、もう何もなかった。室外機の箱も、ゴミ箱も。地面のコンクリートに、四角い跡が薄く残っているだけだった。何年かぶりに、路地の奥へ入った。
二階の横の窓が並んでいた。どの窓にも、店の明かりがともっている。笑い声と、炭のはぜる音が、ガラス越しにこぼれてくる。路地の古いコンクリートが、窓の形に四角く照らされていた。
裏の駐車場から、勤め帰りらしい二人連れが路地に入ってきた。一人が二階を見上げて、足を止めた。
「ここ、焼き鳥屋なんだ。知らなかった」
「表の看板のとこだろ。入ってみる?」
二人は路地を抜け、表の階段を上がっていった。
一階の不動産屋のシャッターの下から、まだ明かりが漏れていた。三階の英会話教室の窓からは、子どもたちの声がかすかに聞こえる。
背中で足音がした。振り向くと、柏木が立っていた。
「通れるか、見に来た」
柏木は路地の奥まで歩いていき、また戻ってきた。柴田の横で足を止め、二階の窓を見上げる。
「やっと、通れるようになったな」
それだけ言って、柏木は表の通りへ帰っていった。
柴田は、もう一度、二階の窓を見上げた。
消防の数える窓は、外から消防隊が入ってこられる穴のことだと、鳴海は言った。
入ってくるのは、消防隊だけではないのかもしれない。
この物語はフィクションです。物語の解決策は、個々の建物にそのまま当てはまるものではありません。
次の話「第2話 解説」では、鳴海の解き方が現実の消防法でも通るのかを、行政書士の小川洋史が解説します。
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