第九話 「産声」
Hoogduits=ドイツ。オランダ人は、ドイツのことを「ホーフドイツ」(オランダの山のほう)と実際に呼んでいたという説があります。
文政十年、初夏。
その知らせが来たのは、出島の門がちょうど閉まった直後だった。
夕暮れの出島橋のたもとで、私は丸山から駆けてきた小女に袖をつかまれた。
「今村さま、今村さまですか。妙ねえさんが、産気づきました。ヤンセンさまに、すぐに」
振り返ると、表門はもう固く閉ざされていた。
門番に事情を話しても、首を横に振られるだけだった。夜のあいだ、門は誰のためにも開かない。
異人は、許しなく出島の外へは出られない。
それがこの島の決まりだ。
ヤンセン様は、外科と産科の医者だ。
その人が、自分の子の生まれる夜に、門一枚を隔てて、何もできない。
門の向こうで、誰かが走ってくる足音がした。
門番が渋い顔で、門の脇の小窓をわずかに開ける。
その隙間から、一通の書状と、小さな包みが差し出された。
「伊織殿」
ヤンセン様の声だった。片言ではなかった。
「オランダ語で書いた。お産の心得と、もしものときの手当てだ。妙のそばで、産婆に訳してくれ。それから、もう一通は、妙に」
「ヤンセン様」
「頼む」
小窓は、それだけで閉まった。
私は二通の書状を懐に押し込み、走った。
妙殿の家は、丸山の外れの、小さな借家だった。
ヤンセン様の伴侶として、奉行所に届け出られた人。
もとは丸山の遊女で、出島に出入りを許されていた女の人。
私は出島で何度か顔を合わせたことがあったが、言葉を交わしたことはほとんどなかった。
家の中は、湯を沸かす湯気と、人の気配でむせ返るようだった。
奥の間から、獣のような呻き声が聞こえてくる。
その声を割るようにして、聞き覚えのある声が飛んできた。
「男は外! 邪魔ったい!」
吟様だった。
玄伯先生の奥方。長崎じゅうの子を取り上げてきた産婆。
襷をきりりとかけ、袖をまくった腕は、驚くほど太かった。
「吟様。ヤンセン様から、書状を預かってまいりました。お産の心得と、もしものときの手当てを、オランダ語で」
吟様の目が、すっと細くなった。
「……男の医者?男の書いたもんね」
「はい」
「読んでみんね」
私は、行灯の明かりの下で、書状を開いた。几帳面な、細い字。ヤンセン様の字だ。
私は一行ずつ、声に出して訳した。
産婦の体を冷やさぬこと。湯を絶やさぬこと。子の頭が見えたら、無理に引かぬこと。
そして、もし臍の緒が子の首に巻きついていたら、慌てず、指をかけて、そっと頭の上へ外すこと。
navelstreng。臍の緒。
訳しながら、私の声は震えていた。
この一語を間違えれば、子の命にかかわる。
吟様は、腕を組んで最後まで聞いていた。
そして、ふん、と鼻を鳴らした。
「そげなこと、千人取り上げたおいは、とうに知っとる」
私は、言葉に詰まった。
「首に緒が巻くことは、十に一つはある。慌てて引っ張ったら子が死ぬ。そっと外す。こん手が、ちゃんと覚えとる」
吟様は、自分の太い腕を叩いた。
「ばってん」
ほんの少し、声がやわらいだ。
「異人の医者も、同じことば言いよるとね。……そいぎんた、間違いなかたい」
そう言って、吟様は奥の間へ戻っていった。
私は、書状を手にしたまま、立ち尽くしていた。
西洋の医学書に書かれていることを、この人は、千人の赤子を取り上げた手で、とうに知っていた。名もない産婆の手が、遠い国の医者と、同じ答えにたどり着いていた。
どちらが上でも、下でもない。
ただ、同じ命を、別々の場所から見ていたのだ。
夜が更けた。
奥の間の呻き声は、ときに途切れ、ときに叫びに変わった。
表の土間では、いつの間にか玄伯先生が来ていて、落ち着きなく行ったり来たりしていた。
「先生、なぜここに」
「吟の帰りが遅いから迎えに来ただけだ。勘違いするな」
そう言いながら、先生は奥の間から声がするたびに、びくりと肩を震わせている。
「先生は、お産には」
「漢方医は、産の床には入らん。あそこは吟の戦場だ」
「漢方のお医者様は、産科は門外ですものね……」
「馬鹿を言うな。唐土が唐のころの学者に孫思邈翁がいる。100年前にも賀川玄悦殿や香月牛山殿など、優秀な産科の漢方医はいたし、今もその末裔がいる。まったく……林家の嬢様に何と言われるか。それくらいは知っておけ」
「……肝に銘じておきます」
先生は、腕を組んで庭の柱にもたれた。
「だがのう、伊織坊」
「はい」
玄伯先生が、遠くを見ながら、呟いた。
「わしら夫婦には、子ができなんだ。幼き頃、吟は子を宿す場所に病を負った。吟は、それを知ってから、余計に他人の子を取り上げるようになった。長崎じゅうの子が、自分の子のようなもんだと言うてな」
私は、何も言えなかった。
先生は、奥の間の襖を見つめたまま、ぽつりと言った。
「あの異人の子も、吟にとっては、我が子と同じよ」
夜半を過ぎたころ、奥の間から小女が顔を出した。
「今村さま。ねえさんが、呼んどらす」
「私を?」
「もう一通の手紙ば、読んでほしかって」
私は、懐の二通目の書状を握りしめた。
妙殿への、手紙。
奥の間に入ると、汗に濡れた妙殿が、吟様に支えられて身を起こしていた。
痛みの合間の、わずかな静けさだった。
「通詞さん。あん人の手紙、読んで」
かすれた声だった。
「……私が、読んでよいものなのでしょうか」
「あんたしか読めんやろ」
妙殿は、苦しげに、けれど少し笑った。
「それに、あん人、本当は日本語で書けるくせに。わざわざオランダ語で書くとは、照れとるとよ」
私は、目を見開いた。
この人は、知っている。ヤンセン様の片言が、ふりだということを。
私は、書状を開いた。
オランダ語の、短い手紙だった。
読み始めて、すぐに、私は後悔した。
これは、私が声に出してよい言葉ではない。
しかし、これを妙殿に伝えることができるのは、今はこの私しか、いないのだ。
「訳します」
「よかよ」
あなたに会えたことを、私は生涯の幸いと思う。
門一枚に隔てられて、あなたのそばにいられないことを、どうか許してほしい。
あなたと、生まれてくる子を、私は――
そこで、私は詰まった。
足すな。削るな。
岩下様の目が、頭に浮かんだ。
私は、息を吸い、一語も削らずに訳した。
「あなたと、生まれてくる子を、私は、心から愛している」
妙殿は、目を閉じた。
その目尻から、涙がひとすじ、流れた。
「……知っとるとよ」
小さな声だった。
「そげなこと、知っとるとに」
私は、続きを読もうとして、ふと、手を止めた。
手紙の最後に、一語だけ、見慣れない綴りの言葉があった。
オランダ語なら、liefde と書くはずの言葉。愛、という意味の。
けれどそこには、別の綴りがあった。
急いで書いたせいだろうか。あるいは。
私は、何も言わずに、手紙を畳んだ。
次の痛みが、妙殿を襲ったからだ。
夜明け前、家じゅうに、吟様の声が響いた。
「出る! もうひと息!」
私は表の土間で、玄伯先生と並んで、ただ立っていた。
息をすることさえ、忘れていた。
そして。
空気を裂くように、か細い、けれどはっきりとした声が聞こえた。泣き声だった。
生まれたばかりの、人の、最初の声。
産声。
玄伯先生が、柱にもたれたまま、ずるずると座り込んだ。
「……泣いた。泣いたぞ」
その声も、少し震えていた。
やがて、奥の間の襖が開いた。吟様が、白い布にくるまれた小さなものを抱いて出てきた。
「女の子たい」
吟様の額は汗で光り、腕は血に濡れていた。
けれど、その顔は、私が見たどんな人の顔よりも、晴れやかだった。
「首に緒が、ひと巻きしとった。異人の先生の書いとったとおりたい」
吟様は、腕の中の赤子を、少しだけ私のほうへ傾けた。
「髪の色が、ちょっと薄かね。目は、まだわからん」
小さな、しわくちゃの顔だった。
こんなに小さなものが、あんなに大きな声で泣いたのだ。
東の空が白みはじめたころ、私は出島橋へ走った。
門が開くのを待って、真っ先に中へ飛び込む。
ヤンセン様は、門のすぐ内側に立っていた。
一晩じゅう、そこにいたのだと、ひと目で分かった。
目の下が黒く落ち窪み、着ているものは昨日のままだった。
「イオーリ」
「お生まれになりました。女の子です。母子ともに、ご無事です」
ヤンセン様は、何も言わなかった。
ただ、両手で顔を覆った。
大きな背中が、小さく震えていた。
しばらくして、ヤンセン様は顔を上げた。
片言ではなかった。流暢な日本語だった。
「名前は、もう決めてある。妙にも話した」
「何と」
「種」
ヤンセン様は、朝の光の中で、静かに言った。
「種を蒔く、の種だ。私は、この国に草木の種を探しに来た。けれど、この国で私が蒔いた一番大きな種は、あの子だ」
私は、その言葉を胸に刻んだ。
訳す必要のない言葉だった。最初から、日本語だったから。
ヤンセン様は、ふいに私のほうを見て、いつもの人懐っこい顔に戻った。
「イオーリ。テガミ、ヨンダ?」
「……読みました。妙殿に、頼まれて」
「ゼンブ?」
「全部です。一語も、削らずに」
ヤンセン様は、困ったように笑った。
「ハズカシイ」
そして、出島の朝の光の中を、商館の方へ歩いていった。
私は、その背中を見送りながら、懐の手紙のことを考えていた。
最後の一語。
オランダ語なら、「liefde」と書くはずの言葉。
その綴りが、私の耳の奥で、三年前の「山の方」という言葉と、静かに重なっていた。
妙殿への、最後の一行。
そこには、はっきりと、こう書かれていた。
Ich liebe dich.
オランダ語ではない。けれど、オランダ語によく似た、別の言葉。
出島のオランダ人たちが、Hoogduits と呼ぶ言葉。
高地の、言葉。
「オランダノ、ヤマノホウ」
3年前のあの夕暮れ、私はそれを嘘だと思った。
オランダに、山はないのだから。
けれど、あの方は、嘘をついてはいなかったのかもしれない。
あの方の言葉は、本当に、「オランダ」という国の外の、山の方から来た言葉だったのだ。




