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第八話 「吟味」

将軍様との拝謁の日は、朝から雨だった。


商館長様の一行は、夜明け前に長崎屋を出て、江戸城へ向かった。

献上の品々を担いだ長い列が、濡れた石畳をしずしずと進んでいく。


私は、城の中へは入れなかった。


稽古通詞の身で、公方様の御前に出られるはずもない。

中に入るのは商館長様と、ヤンセン様と、書記の方。日本側からは、検使のお役人と、江戸番大通詞の岩下様だけだ。


私は城門の外の控えの場で、岡野殿や回庵殿と並んで、ただ待った。

雨の音しか聞こえなかった。


昼を過ぎて、一行が戻ってきた。

ヤンセン様は、ひどく疲れた顔をしていた。私の姿を見つけると、片言で言った。

「イオーリ。コトバ、ナカッタ」

「言葉が、なかった……?」

「ダレモ、ハナサナイ。ショウグンサマ、ミエナイ。ワタシタチ、アタマ、サゲル。オワリ。ツマラナイ」


あとで岩下様から聞いた話では、拝謁は、ほんのわずかな間で終わったのだという。

広い座敷のはるか奥、御簾の向こうに公方様(※1)がおられる。

商館長様は、その方角に向かって平伏し、名を呼ばれ、それで終わり。

公方様のお声は、一言も聞こえなかった。

この国でいちばん大切な対面に、訳すべき言葉は、一つもなかった。

私はそれを聞いて、なぜだか、ひどく心細い気持ちになった。


その夜、岩下様が私を呼んだ。

「明日、出かける。供をせよ」

「どちらへ」

「勘定奉行、遠山左衛門尉(さえもんのじょう)(※2)様のお屋敷だ」

勘定奉行。この国の金の出入りを預かる、公方様の御政道の要のお役だ。

「なぜ、そのような方のところへ」

「昔、お世話になった。江戸に参府したときは、必ずご挨拶に伺うのだ」

岩下様はそれだけ言って、口をつぐんだ。

けれど、行灯に照らされたその横顔は、いつもの石のような顔とは、どこか違って見えた。


翌日、遠山様のお屋敷は、思っていたよりも質素だった。

通された座敷で待っていると、やがて襖が開き、一人の老人が入ってきた。


六十を過ぎているだろう。髪は白く、背は少し曲がっている。

けれど、目だけが、恐ろしく鋭かった。こちらの心の中まで、一瞬で見透かしてしまいそうな目だった。

「岩下か。息災で何よりだ」

「遠山様も、お変わりなく」


岩下様が、深々と頭を下げる。私も慌ててそれに倣った。

「そちらは」

「今村の家の次男で、伊織と申します。稽古通詞でございますが、此度はヤンセン殿の付き通詞として、参府に加わっております」

「今村か。良い家だな」

遠山様は、私の顔をしげしげと眺めた。

「次男、と言うたな」

「はい」

「家は継げぬか」

「……はい。優秀な兄がおりますので」


遠山様は、ふっと笑った。

「わしもな、永井という旗本の家の、四男だった」

私は、はっと顔を上げた。

「上に兄が3人。継ぐ家など、どこにもなかった。この遠山の家に養子に入ったが、ここもまた、ご公儀の要職とは縁のない家柄でな。わしが出世するなど、誰も思うておらなんだ」

「では、どうして」

「学問をした」


遠山様は、こともなげに言った。

「昌平坂の学問吟味というものがある。ご公儀が旗本や御家人の学問を試す、いわば試験だ。わしは四十を過ぎてから、それを受けた。周りは二十かそこらの若造ばかりよ」

「……それで、どうなられたのですか」

「首席で通った。数少ない、わしの自慢よ」

横で、岩下様が小さく咳払いをした。

笑いをこらえているのだと、私は気づいた。この方が笑いをこらえるところを、私は初めて見た。

「それだけではないぞ、今村」

岩下様が、珍しく口を挟んだ。

「遠山様は、そのあと、吟味を受ける者のための心得を書き物にされた。どう答えれば点がもらえるか、という手引きだ。それが写されて、今も若い旗本たちの間で回っておる」

「岩下。余計なことを言うな」

「事実でございます」


遠山様は、苦い顔で茶をすすった。

「……広く物を知っておっても、それをただ並べたのでは点にならぬ。問う側が何を求めておるかを読んで、筋道を立てて答えねばならん。それを書いたまでのことだ」

問う側が、何を求めているかを読む。


私は、はっとした。

それは、通詞の仕事と同じではないか。

言葉をただ移すのではなく、相手が何を求めているかを聞き取り、筋道を立てて渡す。

「今村」

遠山様が、私をまっすぐに見た。

「家を継げぬなら、腕を磨け。家は人に奪われることもある。だが、磨いた腕は、誰にも奪えん」


話が一段落したころ、遠山様が、ふと声の調子を変えた。

「岩下。あれから、何年になる」

「21年でございます」

「そうか。21年か」

遠山様は、庭のほうに目をやった。

「今村。お前は、レザノフという名を知っておるか」

「……オロシャの使いの方で、昔、長崎に来られたと」

「そうだ。わしが目付だったころだ」

遠山様は、ゆっくりと語り始めた。


文化元年の秋、ロシアの船が長崎に入った。

乗っていたのは、皇帝の国書を携えた使節、アレクセイ・レザーノフ。

かつて別のロシアの使いが受け取った、長崎へ入ってよいという許しの札を持ち、通商を求めてやってきた。

ご公儀は、使節を半年近くも待たせた末に、答えを出した。


通商は、ならぬ。


その答えを伝える役を負って、江戸から長崎へ下ったのが、目付の遠山様だった。

「わしは、オロシャの言葉など、一言も知らぬ。向こうも、こちらの言葉を知らぬ。間に立ったのは、オランダ語の分かる通詞たちだった」


遠山様の目が、岩下様に向いた。

「その中に、まだ三十を少し過ぎたばかりの、若い通詞がおった」


私は、岩下様を見た。

岩下様は、膝の上で両手を握り、まっすぐ前を見ていた。

「ご公儀の諭書は、厳しい文面だった。通商は許さぬ、国書も受け取らぬ、早々に立ち去れ。わしは、それを一言も変えずに伝えよと命じた。この若い通詞は、そのとおりに訳した。足しもせず、削りもせず」


遠山様は、しばらく黙った。

「レザノフは、ひどく怒って長崎を去った。そしてその後、オロシャの船が、北の島々を襲った(※3)」


座敷の空気が、冷えた気がした。

「ご公儀の答えが、そのまま伝わった。だから、ああなった。もしあのとき、誰かが言葉を少しでも和らげておれば、違うていたのかもしれぬ。あるいは、何も変わらなんだのかもしれぬ。それは、誰にも分からぬ」

遠山様は、岩下様のほうに向き直った。

「岩下。お前は、あれをずっと背負うておるのだろう」

岩下様は、答えなかった。ただ、握った拳が、かすかに震えていた。

「お前は、正しく訳した。わしが、そう命じたのだ。国の言葉の重さを負うのは、命じた者の役目だ。通詞の役目ではない」


遠山様の声は、静かだった。

「だから、お前は若い者に、言葉を足すなと教えておるのだろう。足さねば、重さは命じた者のところに残る。通詞は、潰れずに済む」


私は、息をするのを忘れていた。

通詞は訳すだけだ。言葉を足すな。

荷揚げ場で、私が言葉を足したあの夜、岩下様はそう言った。

足した言葉に誤りがあれば、罪に問われるのはお前だ、お前の家だ、と。


あれは、規則を守れという意味ではなかった。

お前を潰したくない、という意味だったのだ。


岩下様が、ようやく口を開いた。

「……遠山様。私は、今でも分からぬのです。あのとき、私は正しかったのか」

「すまぬ。わしにも分からぬ」

遠山様は、穏やかに笑った。

「だから、わしらは吟味を続ける。答えの出ぬ問いを、一生かけて吟味する。学問とは、そういうものだ」


帰りがけ、廊下で、一人の男とすれ違った。

三十を少し過ぎたほどだろうか。着流しに、どこか崩れた着こなし。

旗本の屋敷の中だというのに、町の遊び人のような気配をまとっている。


男は、岩下様に軽く会釈をし、私の顔を、面白そうにちらりと見た。

「親父の客か。長崎の通詞さんだな」

「……はい」

「江戸は面白えだろう。ゆっくりしていきな」

そう言って、男は袖をまくり上げながら、奥へ歩いていった。

その腕に、何か、色のついたものが見えたような気がした。

あの人足の腕にあった、墨とは違う。

もっと鮮やかな、花びらのような何か。


見間違いだったのかもしれない。

廊下は薄暗く、ほんの一瞬のことだった。

「岩下様、今の方は」

「遠山様のご長男だ。金四郎(きんしろう)様という。景元、という名を与えられるとも聞いた」

岩下様は、前を向いたまま言った。

「若いころは、ずいぶん放蕩されたと聞く。だが、あの方の倅だ。いずれ、何かの役に就かれるだろう」


長崎屋への帰り道、岩下様は、ずっと黙っていた。

日本橋の人波の中で、私は、思い切って口を開いた。

「岩下様」

「何だ」

「荷揚げ場の夜、言葉を足すなと叱られたこと。私は、ようやく分かった気がします」


岩下様は、足を止めなかった。

「分からんでいい」

「ですが」

「お前が分かったつもりになるのは、まだ早い」


そう言って、岩下様は、少しだけ歩みを緩めた。

「だが……覚えておけ。わしらの訳した言葉は、わしらの手を離れたあと、どこへ転がっていくか分からん。北の海で、船が燃えることもある」


私は、黙ってうなずいた。

学問吟味。訳語の吟味。答えの出ぬ問いの吟味。

この日、私は、吟味という言葉の、いくつもの重さを知った。


そして2年後、私は、もう一つの、とても重い吟味の意味を知ることになる。


奉行所の白洲で、人の罪を問う、あの吟味を。


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その後、長崎にて。

長崎屋の夜更け。客が帰ったあと、小柄な男が一人、遅れてやってくる。天文方の高硲徹栄(たかばさまてつはる)と名乗るその男は、目を輝かせてヤンセン様の持つ異国の航海記を見つめる。

話が「書物の交換」に及んだとき、ヤンセン様が、ふいに私を振り返った。

「イオーリ。ソト、イテ」

初めてだった。

ヤンセン様が、私を部屋の外へ出したのは。


その理由も、私はのちに、知ることになるとは、思いもしなかった。


※1 この参府の際の将軍は第11代・徳川家斉。

※2 実在の人物。遠山景晋とも呼ばれている。長崎奉行を歴任し、その日記「遠山村垣西蝦夷日記」は一次資料として特に有名。蝦夷地を旅し、アイヌとの交流も行った。

※3 1806年、1807年にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。文化露寇、フヴォストフ事件とも呼ばれている。


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