第七話 「造語」
長崎屋の日々は、岩下様の言ったとおりだった。
夜明けから、門前に人が並ぶ。
医者、本草学者、天文方の役人、大名家の儒者。
誰もが手に書物や紙束を抱え、異人に一言でも問いたいと、上がり框で順番を待っている。
ヤンセン様は、その一人ひとりに会った。いつのように握手をし、微笑んで話す。
私は、朝から晩まで訳し続けた。
眼病の治し方。
星の動き。
西洋の暦。
鉱石の見分け方。
問いはあらゆる方向から飛んできて、私の知らないオランダ語が、次から次へとヤンセン様の口から出てくる。
訳しきれないとき、横から助け舟を出してくれたのは、岡野殿だった。
「それはこの書の、ここに出ている言葉だ」
岡野殿は、ヤンセン様が持参した蘭書の山から、目当ての一冊を抜き出し、指で頁をたどる。
本当に、私が聞いて訳すより速く、読んで解いてしまうのだ。
悔しかった。
けれど、助かった。
岩下様は、座敷の隅で、ずっと腹を押さえていた。
長崎から持ってきた玄伯先生の胃薬の包みが、日に日に減っていくのを、私は見ないふりをした。
三日目の昼、座敷の空気が変わった。
門前で見た、あの杖の老人が通されたのだ。
それまで座敷を埋めていた学者たちが、さっと脇へ寄り、膝を正す。
若い医者の何人かは、平伏せんばかりに頭を下げていた。
老人は、四十がらみの男に支えられて、ゆっくりと座った。
「大槻玄沢(※1)でございます。これは、倅の玄幹」
その名を聞いて、私は息をのんだ。
大槻玄沢。
江戸で芝蘭堂という蘭学の塾を開いた重鎮。この国の蘭学者で、その名を知らぬ者はいない。
杉田玄白先生と、もう一人の師から一字ずつもらって、玄沢と名乗ったのだと聞いたことがある。
玄伯先生がぼやいていた、あの「玄沢」だ。
玄沢先生は、袱紗に包んだ書物を、ヤンセン様の前に置いた。
「師たちの『解体新書』には、誤りが多うございました。わしはそれを、20年余りかけて直してまいりました。ようやく、形になりました」
包みが解かれる。
『重訂解体新書』。
分厚い、何冊もの書物だった。(※2)
「名高い蘭医の先生に、ご覧いただきたく」
私がそれを訳すと、ヤンセン様は、片言をやめて、深く頭を下げた。
そしてオランダ語で、ゆっくりと言った。
「Twintig jaar. Twintig jaar besteed aan één enkel boek.」
(二十年。ひとつの書物を訳すのに二十年もかけたのですね)
それから、いくつもの問いが交わされた。
大槻先生は、直した訳語の一つひとつについて、これで正しいかとヤンセン様に尋ねた。
ヤンセン様は書物の挿し絵を指で押さえ、オランダ語で答える。
私はそれを日本の言葉に戻す。
ある訳語のところで、私の口が止まった。
ヤンセン様の説明と、玄沢先生の訳語とが、少しずれているように思えたのだ。
けれど、言えなかった。
相手は、江戸の蘭学の大御所だ。
20年をかけた書物だ。
下っ端の稽古通詞の私が、そこに誤りがあるなどと、どうして言えるだろうか。
私は、ヤンセン様の言葉を、角が立たないように丸めて訳した。
大槻先生は、うなずいた。そして、私の顔を、じっと見た。
皺の奥の目が、ほんの少し、細くなった。
その日の夕刻、大槻先生がお帰りになるとき、私は玄関まで見送りに出た。
草履を履きかけた先生が、ふいに振り返った。
「今村殿、と言われたか」
「はい」
「さっきの訳語。ヤンセン先生のお言葉と、ずれておったのだろう」
私は、凍りついた。
「……なぜ、それを」
「あなたが言い淀んだ。そして、何かを丸めた。わしも若いころは、長崎で通詞の方々に教わった身だ(※3)。通詞が言葉を丸めるときの顔くらい、分かるさ」
大槻先生は、玄関の框に腰を下ろした。
玄幹殿が、慌てて横に膝をつく。
「父上、お体に障ります」
「よい。少し話をさせてくれ」
玄沢先生は、杖に両手を重ねた。
「あの書の始まりを、あなたはご存じか」
「杉田先生が、お仲間と訳されたと」
「そう思われておる。世の中では」
玄沢先生は、遠くを見るような目をした。
「本当は、もう一人おられた。前野良沢という方だ。オランダ語を最もよく読めたのは、その良沢先生だった。辞書もほとんどない中で、一つの言葉に一日かけ、二日かけ、それでも分からぬ言葉は薩摩藩の家紋である轡十字をつけ、分からぬままにして、少しずつ、少しずつ読み解いていかれた」
「……その方の名は、書物には」
「載っておらぬ」
大槻先生は、静かに言った。
「訳が不十分なまま世に出すことを、良沢先生は潔しとされなかった。だから名を載せることを断られた。名を残さず、ただ訳された。わしが玄沢と名乗っておるのは、杉田先生の玄と、前野先生の沢をいただいたからだ」
玄白と、良沢。
あわせて、玄沢。
この方の名の中に、名の残らなかった人が、生きている。
「良沢先生は、よくこう言われた。『国が異なり、言葉が違っても、同じ人間のすることだ。理解できぬということはなかろう』、と」
私は、その言葉を、胸の中で繰り返した。
同じ人間のすることだ。
弥七の島の言葉も、道頓堀の浄瑠璃も、ヤンセン様のオランダ語も。
「今村殿」
大槻先生が、私をまっすぐに見た。
「師たちも、ずいぶん間違えられた。わしはそれを20年かけて直した。わしの訳にも、まだ誤りはあろう。今日、あなたが丸めたところのようにな」
「……申し訳ございません」
「詫びることはない。誤りは、いずれ誰かが直してくれる。わしが師の誤りを直したように」
玄沢先生は、杖をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「誤訳が怖いか」
「――はい。怖いです。それを書いた人の、すべてを壊してしまうような気がして」
「怖いとも。わしも怖い。だが」
皺だらけの手が、私の肩に、そっと置かれた。
「誤るのを恐れて黙る者より、誤って直される者のほうが、よほど世の役に立つ。今日のずれは、明日、倅に伝えておいてくれ。倅が直す」
玄幹殿が、私に小さく頭を下げた。
父君とは違う、少し神経質そうな、けれど真面目な目をした人だった。
「今村殿。のちほど、その訳語のこと、詳しくお聞かせ願えますか。父の書を、少しでも正しくしたいのです」
「……はい」
「それから」
玄幹殿は、少しだけ声を落とした。
「あなたは耳でオランダ語を覚えた方だと、ヤンセン先生から伺いました。耳で覚えた言葉は強い。けれど、骨がない。言葉には、組み立ての決まりがあるのです。それを知れば、聞いたことのない言い回しにも、筋道が立てられる」
骨。
言葉の、骨。
「私はそれを書物(※4)にまとめようとしております。いずれ、長崎へ送りましょう」
父と子は、夕暮れの日本橋の人波の中へ、ゆっくりと消えていった。
その夜。
客がすべて帰ったあとの長崎屋の奥座敷で、私は一人、帳面を広げていた。
昼間の訳語のずれを、玄幹殿に伝えるために書き留めておこうと思ったのだ。
ふと、人の気配がした。
障子の向こうに、痩せた影が立っていた。
「夜分に、失礼いたします」
門前で、宿の看板を見上げていた、あの男だった。
「宇田川榕菴(※5)と申します。津山の藩医で、この春から、天文方の蕃書和解御用を仰せつかっております」
蕃書和解御用。幕府の、異国の書物を訳す役所だ。
この若さで。
「ヤンセン先生ではなく、あなたに伺いたいことがあって参りました」
「私に、ですか」
「はい。通詞の方に」
榕菴殿は、私の前に座ると、懐から紙を一枚取り出した。
そこには、オランダ語の単語が一つ、書かれていた。
cel。
「植物の書を訳しております。草木の体を、拡大の鏡で覗くと、小さな部屋のようなものが、びっしりと並んで見えるのだそうです。それを、この言葉で呼ぶと」
榕菴殿は、紙の上の言葉を、指でそっと押さえた。
「書物の上では、意味は分かります。けれど、オランダの人々が、この言葉を口でどう使うのか。どんな響きで、どんなものに使うのか。それが知りたいのです。私は、書物の上でしかオランダ語を知りませんので」
私は、ヤンセン様の部屋で聞いた、いくつもの会話を思い出した。
「出島では、牢の一部屋のことも、そう呼んでいました。それから、修道士が籠もる小さな部屋も。蜂の巣の、あの小さな穴の一つひとつも、そうだと聞いたことがあります」
「蜂の巣……でございますか」
榕菴殿の目が、灯火の中で、すっと光った。
「狭い、閉じた、小さな部屋。それが、たくさん並ぶもの」
「はい」
「それを、漢字で、どう言えばよいと思われますか」
私は、考えた。
部屋。室。房。どれも、少しずつ違う気がした。
ふと、長崎の、梧桐玄伯先生の家の座敷が浮かんだ。
玄伯先生の奥方、吟様の声。
長崎じゅうの赤子を取り上げてきた産婆が、いつか言っていた言葉。
「……胞衣、という言葉があります」
「胞衣……ですか」
「赤子を、腹の中で包んでいる袋です。産婆は、子が生まれたあと、それを大事に埋めます。命を包む、小さな袋だと」
榕菴殿は、静かに考え始めた。長いあいだ、黙っていた。
それから、紙の余白に、筆で一字だけ書いた。
胞。
「包む、袋。命を包む、小さな袋」
榕菴殿は、その字をじっと見つめた。
「まだ、分かりません。これで正しいのかどうか。けれど、何かが、ここにある気がします」
そして、ふっと顔を上げ、私を見て笑った。
「今村殿。私は書斎で言葉を作ります。けれど、言葉が生きているのは、書斎の外です。出島の牢屋や、蜂の巣や、産婆の手の中です。それを、私に教えてくださる方が欲しい。あなたは、それができる」
「私などで、よいのですか。買い被り過ぎでは」
「あなた『が』、よいのです」
榕菴殿は、懐から、別の小さな紙包みを取り出した。
「お近づきのしるしに。蘭人の好む豆です。煎って挽き、湯で煮出して飲む。私は10年ほど前、これについて小さな書き物(※6)をしたことがあるのです」
10年ほど前、……って、年嵩からいってもまだ20にもなっていないのではないか?
「……珈琲、ですか」
「ご存じでしたか」
「ヤンセン様が、毎朝飲まれていますので」
榕菴殿は、心から嬉しそうに笑った。
「では、長崎へ戻られたら、手紙をください。出島の言葉を、私に。私は、江戸の書物の言葉を、あなたに」
「わかりました。確かに」
榕菴殿が帰ったあと、私は、帳面の新しい頁を開いた。
そこに、今日会った3人のことを書き留めた。
誤りを恐れず、直し続ける人。
言葉に、「骨」を与えようとする人。
書斎で、言葉を生み出す人。
そして、名を残さずに、ただ訳した人。
前野良沢という人に、私は会うことができない。
その人は、私が生まれる前に亡くなっている。
けれど今日、その人の言葉は、玄沢先生の口を通って、私に届いた。
国が異なり、言葉が違っても。
時が隔たっても、きっと同じなのだ。
私は、榕菴殿が書いた一字を、帳面の隅に写した。
cel。
胞。
命を包む、小さな袋。
この字が、いつか本当の言葉になる日が来るのかどうか、私には分からない。
けれど、もしその日が来たら、その言葉の奥には、長崎の産婆の手と、出島の牢屋と、蜂の巣の小さな穴が、ひっそりとつながっているのだろう。
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長崎屋に来て、五日目の昼だった。
その日の客も、朝から途切れなかった。
天文方、医者、本草家。私は訳し続け、喉はとうに嗄れていた。
昼過ぎ、廊下がざわついた。
上がり框のあたりで、宿の者たちが慌ただしく頭を下げている。
座敷で順番を待っていた学者たちまでが、腰を浮かせて入口のほうを見た。
入ってきたのは、一人の老人だった。
大槻玄沢先生と同じくらいの年に見えた。
けれど、杖はついていない。
背筋が、一本の棒を通したようにまっすぐだった。
日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その奥の目は、海の遠くを見る船乗りのような色をしていた。
「最上徳内と申す」
老人は、座敷の入口で、軽く頭を下げた。
「蘭医の先生に、北の話をしに参った」
座敷の誰かが、息をのむ音がした。
最上徳内。
名前だけは、私も知っていた。
蝦夷地へ何度も渡り、千島の島々を、さらにその先までを歩いた人。
ご公儀の北の御用を、若いころからずっと務めてきた人だと。
徳内殿は、ヤンセン様の前に、すっと座った。
その座り方を見て、私は思わず目を見張った。
膝を折り、腰を下ろすまでの動きに、少しの揺れもない。七十を過ぎた人のものとは思えなかった。
昌野殿が、私の耳元で囁いた。
「あの爺様、槍の名人だそうだ。若いころは、蝦夷地で熊と渡り合ったとか」
「熊と……」
「冗談か本当か知らんがな」
徳内殿は、懐から一本の扇子を取り出した。
ぱちりと開くでもなく、閉じたまま、その先端を畳の上にすっと突き出す。
槍の穂先を構えるような、鋭い手つきだった。
「蘭医殿。地図をお持ちか」
私が訳すと、ヤンセン様は頷き、棚から一枚の大きな紙を広げた。
西洋の船乗りが作ったという、北の海の地図だった。
徳内殿の扇子の先が、地図の上を滑った。
「ここが、蝦夷の島。ここから、こう東へ。千島の島々が、数珠のように続いておる」
扇子の先が、ひとつ、ひとつ、島を突いていく。
「わしは、この島々を、ほとんど歩いた。若いころにな」
私は、言葉を移した。
ヤンセン様は、目を輝かせて聞いていた。
片言で、次々に問いを重ねる。島の大きさ。冬の海の様子。そこに暮らす人々のこと。
「アイヌの者たちが暮らしておる」
徳内殿は言った。
「わしらとは違う言葉を話す。わしは、少しばかり、その言葉を覚えた。覚えねば、道も、水のありかも、教えてもらえなんだからな」
私は、思わず訳す手を止めかけた。
この国の中に、もう一つの、違う言葉を話す人々がいる。
弥七の島の言葉。宿場ごとに変わる言葉。昌野殿の陸奥の言葉。
そして、北の果てには、まるで別の言葉が。
ヤンセン様が、身を乗り出した。
「アイヌ、コトバ。オシエテ」
徳内殿は、ふっと笑った。
「たとえば、人のことを、アイヌと言う。アイヌとは、もともと人という意味なのだ」
私は、その言葉を、ゆっくりとオランダ語に移した。
アイヌの言葉を、徳内殿が日本の言葉にし、それを私がオランダ語にする。三つの言葉を通って、一つの言葉が、遠い国の医者に届いた。
人。
ヤンセン様は、その言葉を、帳面に丁寧に書きつけた。
それから、徳内殿の扇子の先が、地図の北の端へと移った。
大陸の東の縁から、細長い陸地が、南へと垂れ下がっている。西洋の地図では、それは大陸と地続きのように描かれていた。
「ここだ」
扇子の先が、その陸地をとん、と突いた。
「樺太。西洋の者たちは、これを大陸の一部だと思うておる。だが、違う」
徳内殿の目が、鋭く光った。
「これは、島だ。大陸との間には、海がある。狭いが、確かに海がある」
ヤンセン様の顔色が、変わった。
片言をやめるかと思った。
けれど、ヤンセン様は、ぎりぎりのところで踏みとどまった。そして、震えるような声で、片言のまま問うた。
「ナゼ、シッテル」
「わしの下におった者が、歩いて確かめた」
徳内殿は、地図から目を離さずに言った。
「間宮林蔵という。わしなどより、よほど胆の据わった男でな。樺太の北の果てまで行き、海を渡り、大陸の土まで踏んで帰ってきた。そして、樺太が島であることを、己の足で確かめた」
間宮林蔵。
私は、その名前を、オランダ語の中に、そのまま置いた。訳しようのない、人の名前だった。
ヤンセン様は、しばらく何も言わなかった。
やがて、地図の上の、その細い海のあたりに、そっと指を置いた。
そして、少し声を落として、何かを言った。私には、その意味が分かった。
その地図を、譲ってはもらえないか。
訳すべきかどうか、私は迷った。
この国の地図を、異人に渡すことは、ご公儀の固い禁制だ。
それを、私の口から、この老人に伝えてよいのか。
私が口を開く前に、徳内殿が、ふいに私のほうを見た。
「通詞殿」
「……はい」
「今の言葉は、訳さずともよい」
私は、息をのんだ。
徳内殿は、ヤンセン様に向き直った。そして、私を通さずに、日本の言葉で、低く、ゆっくりと言った。
「お譲りするわけにはゆかぬ。だが、一夜だけ、お貸ししよう。写したら、すぐに返されよ。そして、このことは、決して他言なさるな」
ヤンセン様は、何も答えなかった。
答えなかったのに、深く、頭を下げた。
徳内殿の言葉を、ヤンセン様は、私の訳を待たずに、受け取っていた。
私の背中を、冷たいものが走った。
この老人は、知っているのだ。
この異人が、本当は日本の言葉を分かっていることを。
そして、それを知ったうえで、私を通さずに話した。
通詞の私に、この言葉を訳させないために。
訳さなければ、私は、何も聞かなかったことにできる。
徳内殿は、すっと立ち上がった。
来たときと同じ、一本の棒を通したような背筋で、座敷を出ていく。
廊下で一度だけ立ち止まり、振り返らずに言った。
「通詞殿。わしは、言葉を覚えたおかげで、蝦夷の地で生き延びた。言葉は、人を生かす。だが、ときに、人を殺しもする」
そして、去っていった。
座敷には、地図と、ヤンセン様と、私だけが残った。
私は、今日訳した言葉を、一つずつ思い返した。
アイヌ。人。樺太。島。間宮林蔵。
そして、私が訳さなかった言葉のことを。
訳さなかった言葉は、どこへ行くのだろう。
誰の耳にも届かず、消えてしまうのだろうか。
それとも、いつか、思いもよらない形で、戻ってくるのだろうか。
2年後、私は、その答えを知ることになる。
間宮林蔵という名前が、思いもよらない形で、私たちのもとへ戻ってきたときに。
※1 1757年生まれの実在の蘭学者。翻訳家としても有名。1788年には蘭学の入門書『蘭学階梯』を出版している。杉田・前野の両師に学んだ高弟である。
※2 『解体新書』が4巻だったのに対し、『重訂解体新書』は13巻。
※3 大槻玄沢は1785年からオランダ通詞の本木良永に寄寓し、4ヶ月あまり滞在し、良永や吉雄耕牛ら
と交わって語学力を磨いた。本木良永は日本に地動説を紹介したり、「惑星」という言葉を考案した人物として有名。ともに実在の人物。
※4 このとき大槻玄幹は、オランダ語の文法書『蘭学凡』を著している。
※5 1798年生まれの実在の蘭学者。植物学・化学を日本に広めた第一人者。ウィリアム・ヘンリーの書いた『Epitome of Chemistry』を訳し『舎密開宗』として出版。酸素、水素、窒素、炭素といった元素名や、酸化、還元、昇華、溶解、飽和、結晶、分析、温度など、現在に通じる多くの言葉を訳した。
※6 一節によると17歳のとき当時のオランダ商館長に勧められコーヒーを飲み、その効能をわずか19歳でまとめた『哥非乙説』という稿本が残っている。




