↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/19

第十話 「縁談」

文政十年、秋。


林家の門をくぐるのは、二年ぶりだった。


江戸から戻って半年あまり。礼を言わねばと思いながら、なかなか足が向かなかった。

理由は、自分でもよく分からない。


玄関で案内を乞うと、出てきたのは華殿ではなく、背の高い、人のよさそうな若い男だった。

「おう。阿蘭陀通詞の今村伊織さんだな。妹から、話はよく聞いとる」

「……妹御から、ですか。よく……あまりいい話ではなさそうですね」

「蘭癖の次男坊が、どうだこうだとな」

男は、からからと笑った。

「林平馬(はやしへいま)だ。華の兄で、この家の跡取りをやっとる。まあ、上がってくれ」


通された座敷は、相変わらず墨の匂いがした。

しばらく待つと、襖が開いて、華殿が入ってきた。

2年前より、少し大人びて見えた。

背筋はあいかわらずまっすぐで、こちらを見る目も、あいかわらず険しい。

「何のご用ですか」

「参府の折の、帳面のお礼に」


私は、懐から細長い包みを取り出した。

「江戸で求めました。漢名の帳面がなければ、尾張の宮で、私は一言も答えられませんでした。助かりました」

華殿は、包みを解いた。


中から出てきたのは、一本の筆だった。

日本橋の筆屋で、主人に「漢籍を書く方への贈り物だ」と言って選んでもらった、穂先の細い、軸の美しい筆。

華殿は、しばらく黙って、それを見ていた。

「……漢籍を書くには、穂先が少し柔らかすぎますね」

「そうですか。申し訳ありません、私には筆の良し悪しが」

「でも」

華殿は、筆を光にかざした。

「細い字を書くには、良い筆です。字が、可哀想にならない筆ですね」

そう言って、すっと立ち上がった。


「用が済んだのなら、お帰りください。私は、書物の続きがありますので」

追い出されるようにして、私は座敷を出た。

玄関で草履を履いていると、平馬殿が、にやにやしながら見送りに出てきた。

「伊織さん。一つ、いいことを教えてやろう」

「何でしょう」

「あいつの筆立てには、十本以上の筆が挿してある。どれも、唐土渡りの上等なやつだ」

平馬殿は、奥の間のほうを、顎でしゃくった。

「あいつがその筆をどこに挿すか、賭けてもいいぞ。たぶん、一番前だ」


それからほどなくして、鳴滝に一人の若者がやってきた。

「今村殿!」

ヤンセン様の塾の門をくぐるなり、駆け寄ってきたのは、木島慶介(きじまけいすけ)殿だった。


尾張の宮の宿で会った、あの目のきらきらした若者。

ヤンセン様の「ナガサキ、イッショ、ベンキョウ」という言葉を胸に、本当に長崎まで来てしまったのだ。

「来てしまいました。半年だけですが、ヤンセン先生のもとで学ぶお許しをいただきました」

「よく、ここまで」

「尾張からは遠かったです。でも、来ずにはおられませんでした」


慶介殿は、背負ってきた大きな行李を、どさりと下ろした。

中には、尾張の山で採った押し葉が、ぎっしりと詰まっているのだという。

「それで、今村殿。お願いがあるのです」

「何でしょう」

「宮の宿で、今村殿が見ておられた、あの漢名の帳面。あれを書かれた方に、ぜひお会いしたいのです」


私は、言葉に詰まった。

「本草の漢名は、書物によって呼び方がばらばらで、尾張の師匠でさえ、ときどき取り違えます。けれど、あの帳面は、一つの乱れもなかった。あれを書かれたのは、さぞ名のある本草家の先生なのでしょう」

「……先生、ではありません」

「では、どなたが」

「長崎・唐通事の名門・林家の娘様です。華殿と申されます」


慶介殿は、目を丸くした。

それから、ますます目を輝かせた。

「娘さんですと……女性が、あのような学を!ぜひ、お会いしたい!」


頼みに行けば、断られるに決まっていた。

「蘭方の塾になど、死んでも足を踏み入れませぬ」

華殿は、きっとそう言うだろう。


ところが、林家の座敷で慶介殿の頼みを伝えると、華殿は、しばらく黙ったあとで、こう言った。

「本草の漢名が、乱れているのですか」

「尾張の師匠でさえ、取り違えると」

「それは、いけません」

華殿は、きっぱりと言った。

「字が乱れれば、物の名が乱れます。物の名が乱れれば、薬を取り違えます。正さねばなりません」

「では」

「行きます。蘭方のためではありません。字のためです」

横で聞いていた平馬殿が、湯呑みで口元を隠して、肩を震わせていた。


鳴滝の塾は、長崎の町を見下ろす、緑の深い谷あいにあった。

門をくぐった華殿は、最初、ひどく居心地が悪そうだった。

蘭書の並ぶ棚を見ては顔をしかめ、薬草の匂いに眉を寄せ、すれ違う塾生たちの視線に、背筋をいっそう固くした。


昌野殿が、私の脇腹を肘でつついた。

「おい、本当に連れてきたのか。あの気のつえい、林家の嬢様を」

「字のため、だそうです」

「字のため、かゃ。ほうかのう」

昌野殿は、何か言いたげに私の顔を見たが、それ以上は何も言わなかった。


座敷では、慶介殿が、尾張の押し葉を畳いっぱいに広げて待っていた。

「林華殿ですか!お待ちしておりました。宮の宿では、あの帳面に、どれほど助けられたことか」

慶介殿は、まるで師匠に会ったかのように、深々と頭を下げた。


華殿は、少し面食らったようだった。

「……木島殿、と申されましたか」

「はい。早速ですが、この草。尾張では、本草の書によって二つの漢名があって、どちらが正しいのか」


華殿は、押し葉の前に膝をつき、じっと見つめた。

そして、迷いなく言った。

「こちらの名は、唐土では別の草を指します。尾張の書物が、取り違えているのでしょう。正しいのは、もう一方です」

「やはり! 師匠は前者だと言い張るのですが、私はずっと腑に落ちなかったのです」

「腑に落ちなかったのなら、あなたの目のほうが正しかったということです」

慶介殿の顔が、ぱっと明るくなった。


それから、二人の話は止まらなくなった。

この草の漢名は。あの木の唐土での呼び名は。この字の偏は、どの書物から来たものか。

慶介殿が尾張の山の話をし、華殿が唐土の古い本草書の話をする。

私には、半分も分からない言葉が、座敷を飛び交った。


華殿が、笑っていた。

口元を袖で隠してはいたけれど、確かに、笑っていた。

私は、林家で2年近く顔を合わせてきて、この人が笑うところを、一度も見たことがなかった。


胸の奥が、ざらりとした。


なぜだろう。慶介殿は、ただ純粋に、草の名の話をしているだけだ。

華殿も、ただ字のために、ここに来ただけだ。


なのに、なぜ私は、こんなにも落ち着かないのだろう。

「今村殿」

慶介殿が、ふいにこちらを振り向いた。

「華殿は、本当にすごい方ですね。この方が男であれば、きっと江戸の学問所でも名を上げられたでしょうに」

悪気のない、心からの言葉だった。


華殿の笑みが、すっと消えた。

慶介殿は気づかなかった。けれど、私は気づいた。


この方が、男であれば。

玄伯先生も、昌野殿も、同じことを言った。


誰もが、褒めるつもりで、同じ言葉を口にする。


そしてそのたびに、この人の前に、見えない壁が一枚ずつ積み上がっていく。

「木島殿」

気づくと、私は口を開いていた。

「華殿の学問は、男であろうとなかろうと、華殿のものです。名を上げる場所がないのは、華殿のせいでは決してありません」


慶介殿が、驚いたように私を見た。

「木島殿のお心は分かります。けれど、学も、筆も、唐の言葉も、華殿がたゆみない勉学を積み上げて手に入れたものです。それを、男であれば、と軽く言うのはどうかと」

そこで、私は言葉を切った。

足しすぎた、と思った。


座敷が、しんとした。

慶介殿が、はっとしたように頭を下げた。

「華殿……失礼いたしました。そういうつもりでは」

「分かっております」

華殿が、静かに言った。

そして、私のほうを見ずに、押し葉に目を戻した。

「続けましょう、木島殿。日が暮れてしまいます」

その横顔が、ほんの少しだけ、赤いように見えた。夕陽のせいだったのかもしれない。


鳴滝からの帰り道、華殿を林家まで送ったあと、門の前で平馬殿に呼び止められた。

「今村さん。ちょっといいか」

平馬殿は、いつもの笑顔ではなかった。

「華に、縁談が来とる。あいつももう二十歳だ。漢文漢籍にまみれている場合でもあるまい」


私は、足を止めた。

「唐通事の、名のある家の跡取りだ。家柄も申し分ない。親父は乗り気でな」

「そうですか」

「ただ――華は、即断で断ったぞ」


平馬殿は、腕を組んだ。

「学問の話もできん殿方に嫁ぐくらいなら、漢籍と添い遂げます、だと。親父はもう頭を抱えとる。あいつも、もう二十だ。この先、そうそう良い話は来ん」

「なぜ、それを私に」

「さあな」

平馬殿は、空を見上げた。

「ただ、親父に問い詰められたとき、あいつ、断る理由に、誰かの名前を言いかけたらしい。蘭癖の、と言いかけて、慌てて口をつぐんだとか」


私は、何も言えなかった。

「まあ、俺の聞き違いかもしれんが、な」

平馬殿は、ようやくいつもの笑顔に戻って、私の肩をばしばしと叩いた。

「ああ、それと。賭けは俺の勝ちだ。あの筆、一番前に挿してあったぞ。今度、酒でもおごってくれや」


--------------------------------------------------------------------


その夜、私は、出島のヤンセン様の部屋にいた。

翌日の講義で使う蘭書の訳語を、ヤンセン様と確かめるためだった。


部屋の隅に、見慣れない荷が置いてあった。

油紙で幾重にも包まれ、紐できつく縛られた、平たく大きな包み。

宛名には、ヤンセン様の名。

差出人の名は、江戸の、天文方の誰かのものだった。

「ヤンセン様、あの荷は」

「エド、カラ。トモダチ、オクッテ、クレタ」

ヤンセン様は、片言でそう言うと、私の視線を遮るように、包みの前に立った。


けれど、私には見えてしまった。

油紙の端が、わずかにめくれていた。その隙間から、薄い紙が一枚、のぞいていた。


細い、細い線が、紙の上を走っていた。

入り組んだ、波打つような線。

ところどころに、小さな字で地名らしきものが書き込まれている。

海と、陸の、境目の線だった。

この国の、形だった。


私は、息をのんだ。

この国の絵図を、異人に渡すことは、ご公儀の固い禁制だ。

通詞の家に生まれた者なら、子どもでも知っている。

「ヤンセン様。それは」

「イオーリ」


ヤンセン様は、片言をやめなかった。けれど、その目は、少しも笑っていなかった。

「ミナカッタ。イイネ」

私は、答えられなかった。

ふと、廊下に人の気配を感じて、振り向いた。


障子が、ほんのわずかに開いていた。

その隙間の向こうの暗がりに、痩せた長身の影が、じっと立っていた。

ヘトルの、ウェイデン様だった。


目が合った、と思った瞬間、影は音もなく消えた。

私は、あの荷が何なのか、まだ本当には分かっていなかった。


それが、この国の海岸をくまなく歩いて測った男の、生涯をかけた仕事の写しであることも。

それが、一年後、この出島と、ヤンセン様と、私たちすべての運命を変えてしまうことも。


--------------------------------------------------------------------


ある日の夜、唐人屋敷にほど近い酒屋で、私は一人、杯を傾けていた。

稽古の帰り、なんとなく、まっすぐ家に帰る気になれなかったのだ。


衝立の向こうで、どかりと人の座る気配がした。

兄上だった。

本人は小声のつもりなのだろうが、この店の誰の耳にも届く声だった。

衝立の隙間からのぞくと、紋付の羽織を着た巨体が二つ、膝を突き合わせていた。


「おう、伊之輔殿」

「待たせたたい、平馬殿。どがんや(どうだ)、首尾は。伊織は華さんのことばそがん嫌うとらんごた気がするっとばってんのう」

小声で言っているつもりだろうが、まあまあ聞こえる声だ。

「うちの妹も、ありゃなんとかせんと、十年はくっつかんぞ。ただ、蘭方を嫌ってるだけで、阿蘭陀通詞そのものを嫌っているわけではなさそうだ。そうでなくては鳴滝の塾まで行かんだろう。参府のときも伊織殿のために熱心に書きもんしていたし、伊織殿からもらった筆も大事にしとるようだし」

「筆?贈り物?あいつ、そがん器用なことがでくる(できる)とか?はあ~変わったのお」

「まあ、お互い心底嫌い同士ではなさそうだがな」


そして私の耳には、一語残らず届いてしまった。

勘定をして、店を出る。

顔が赤いのは、酒のせいにしておいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。