第五話 「人足」
文政八年、夏。
オランダ船が入って、出島は一年でいちばん騒がしい季節を迎えていた。
荷揚げ場からは人足たちの掛け声が絶えず、乙名部屋には通詞や役人がひしめいている。
私は朝から積荷の目録と格闘していた。
その喧騒を突き破るように、表門の方から怒声が聞こえてきた。
オランダ語だった。
「Dief! Een dief!」
泥棒だ。
顔を上げると、乙名部屋の土間に、一人の若い人足が引き据えられていた。
両脇を門番に押さえられ、髷は乱れ、腹掛けが半分はだけている。
その前に立っているのは、商館の次席、ヘトルのウィレム・ウェイデン様だった。
痩せた長身を折り曲げるようにして、人足を睨みつけている。
そしてその後ろに、さらに頭一つ大きな影があった。
ヤンセン様とともに出島にやってきた、薬剤師のベンヤミン・ボス様だ。
ヤンセン様よりも背が高い人を、私はこの方のほかに知らない。
鴨居をくぐるたびに首をすくめる、熊のような大男。
けれど目は穏やかで、今もどこか困ったような顔で、ウェイデン様の剣幕を見下ろしている。
「今村」
岩下様の声がした。
「お前が訳せ。ウェイデン殿は、この者を奉行所に突き出すと言っておられる。早く片をつけろ」
ボス様の薬室から、キナの皮が消えた。
熱を下げる薬だ。海の向こうの、遠い南の大陸の高い山に生える木の皮で、西洋ではもう百年以上も熱病の薬として用いられているという。出島でも貴重な品だと聞いている。
唐土では金鶏納と呼ばれ、唐人の間では高値で取引されるという。ひどく苦いため、酒に浸して飲むこともあるそうだ。
それが、この人足の腹掛けの中から出てきた。
表門では、出ていく人足の着物をあらためる。
こぼれた米を懐に入れて持ち出す者が、後を絶たないからだ。
今日の門番は、それで袖や腹掛けを探っていて、米ではないものに行き当たった。
私は人足の前にしゃがみ込んだ。
まだ若い。私とそう変わらないかもしれない。日に焼けた細い腕に、黒く丸い筋が入っていた。
盗みで捕まった者は、腕にぐるりと一周、墨を入れられる。一目で前科者と分かる、見せしめだ。
以前にも、何かをして捕まったことがあるのだ。
私は、人足に問いかけた。
「名は」
「……弥七」
「なぜ、キナの皮を持ち出した」
弥七は、私を見上げた。
そして、堰を切ったようにしゃべり出した。
速い。
速いうえに、訛りが強い。
長崎の町の言葉とは違う。
島の言葉だろうか。語尾が跳ね、言葉と言葉がつながって、どこで切れるのかも分からない。
ときおり混じる言い回しは、聞いたこともないものだった。
拾えたのは、切れ切れの言葉だけだった。
子。熱。三日。銭。
「……待て、もう少しゆっくり」
弥七は口をつぐみ、私をじっと見た。
その目に、はっきりと見下すような色が浮かんだ。
この若い通詞には、どうせ分からない。
そう思われたのが、分かった。
「Wat zegt hij?」
「何と言っている」とウェイデン様が苛立たしげに問う。
答えられなかった。
オランダ語なら、どんな早口でも聞き取れるはずだ。なのに、同じ長崎の、同じ日本の言葉が、私にはどうしても聞き取れない。
そのとき、土間の入り口から、場違いなほど大きな笑い声がした。
「はっはっは!なんや伊織、えらか難儀しとるな」
兄上だった。
今村伊之輔。
今村家の跡取りで、23の若さで小通詞を務めている。
私より頭ひとつ大きく、肩幅は倍もある。
通詞というより、船乗りか力士のほうが似合いそうな人だ。
「兄上。この者の言葉が」
「壱岐ん言葉や。それに、港ん人足ん符丁が混じっとぅ。わいん耳はよかばってん、聞いてきた言葉が上品すぎるばい」
兄上はどかりと弥七の前に座り込むと、私には半分も分からない言葉で、何かを話しかけた。
弥七の顔色が変わった。
さっきまでの見下すような目が消え、まるで旧知の兄貴分にでも会ったような顔になった。
そして、同じ言葉で、堰を切ったように話し始めた。
兄上は黙って聞いていた。ときおり短く問い返し、弥七が答える。
そのやり取りが、しばらく続いた。
やがて兄上は、ふうっと息をついて、私を振り返った。
「娘が熱ば出しとるげな。三日、下がらん。医者に診せる銭はなか。出島ん薬やったら効くと、人足仲間から聞いたち言うとる」
「……では、娘のために」
「そいは本当や」
兄上は、弥七の顔を見たまま言った。
「だがな、伊織。こいつはもう一つ言うとる。余ったら、唐人屋敷ん出入りん者に売るつもりやったと。キナは唐人が高う買うけんな。娘ん薬代と、ついでに当座ん銭と、両方たい」
私は、言葉を失った。
「声がそう言うとる。娘ん話ばするときは喉が詰まる。売る話ばするときは目が泳ぐ。どっちも本当や」
兄上の耳には、そこまで聞こえているのだ。
私には、言葉の意味すら拾えなかったのに。
「Wat zegt hij?」
ウェイデン様が、もう一度問うた。
私は立ち上がった。今度は、私が訳さなければならない。
口を開きかけて、私は迷った。
娘が熱を出している。それだけを訳せば、ヤンセン様やボス様は、きっと同情してくださる。
ウェイデン様でさえ、少しは手を緩めるかもしれない。
売るつもりだったことは、言わなくてもいい。
弥七の言葉は、私と兄上にしか分からないのだから。
あの、血に染まった荷揚げ場の日のことを思い出した。
私は言葉を足して、人を救った。
では、今度は言葉を削って、人を救ってよいのか。
岩下様が、腕を組んでこちらを見ていた。
何も言わない。けれどその目は、はっきりとこう言っていた。
足すな。
そして、削るな。
私は、ウェイデン様に向き直った。
「この者は、キナの皮を盗みました。娘が三日、熱を出しており、そのために持ち出したと申しております。それは本当のようです」
息を吸う。
「ただし、余った分は、唐人屋敷の出入りの者に売るつもりであった、とも申しております」
オランダ語で、一言も足さず、一言も削らずに言った。
ウェイデン様の唇が、薄く歪んだ。
「やはり盗人ではないか。奉行所へ――」
「Waar is het kind?」
低い声が、ウェイデン様の言葉を遮った。
いつの間にか、ヤンセン様が戸口に立っていた。片言ではない。
オランダ語で、はっきりと。
子どもは、どこだ。
ヤンセン様は私を見て、片言に戻って繰り返した。
「イオーリ。コドモ、ドコ」
「……町です。この者の長屋に」
「イク」
「なりません」
岩下様が、即座に言った。
「商館の方が出島の外に出るには、奉行所の許しが要ります。願い出ても、一日はかかります」
ヤンセン様は、岩下様を見た。
岩下様は目をそらさなかった。
規則だ。
ヤンセン様もそれは分かっている。
そのとき、ずっと黙っていたボス様が、のそりと動いた。
薬室の方へ戻り、しばらくして、小さな紙包みをいくつか手にして戻ってくる。
それを、私ではなく、兄上の大きな手に握らせた。
そして、ゆっくりとしたオランダ語で、私に向かって言った。
「これを、子に。朝と夕に一包ずつ。湯に溶かして。三日分ある」
私は、その言葉を一語ずつ、胸に刻んだ。
朝と夕。
一包ずつ。
湯に溶かす。
三日分。
これは、間違えられない。
一包を二包と訳せば、子の体に障るかもしれない。
三日を二日と訳せば、熱がぶり返すかもしれない。
訳語の正しさではない。
数の正しさが、今度は命を分ける。
私は兄上に、ボス様の言葉を一字一句そのままに伝えた。
兄上はそれを、今度は弥七の島の言葉に直して、ゆっくりと言い聞かせた。
オランダ語から、私の言葉へ。
私の言葉から、兄上の言葉へ。
兄上の言葉から、弥七の言葉へ。
三つの口を通って、ようやく、一包の薬の飲み方が、一人の父親に届いた。
弥七は、紙包みを押しいただくようにして、泣いた。
ウェイデン様は舌打ちをして、何かを吐き捨てるように言うと、出ていった。
弥七は、結局、奉行所に引き渡された。
盗みは盗みだった。入れ墨のある身で、二度目の罪だ。軽くは済まない。
それでも、後日、兄上が聞き込んできた話では、奉行所の吟味の書付には、娘の病のことも、売るつもりだったことも、両方が書き留められていたという。
そして、刑は思ったよりも軽かった。
娘の熱は、ボス様の薬で、三日目に下がったそうだ。
私は、自分のしたことが正しかったのか、分からなかった。
削らなかったから、弥七は救われたのか。
それとも、削っていれば、もっと救えたのか。
「難しか顔しとるな」
夕刻、出島橋のたもとで、兄上が私の肩を叩いた。
「兄上。私は、あの者を救えたのでしょうか」
「知らんたい」
兄上は、あっけらかんと笑った。
「救うとは医者ん仕事で、裁くんはお奉行ん仕事や。おいたちん仕事は、聞こえた言葉ば、聞こえたまんま渡すことたい。おいとお前は今日、そればやった。それでよか」
「……兄上は、なぜあの者の言葉が分かったのですか」
「お前が蘭書ば読んどるとき、おいは港で人足と酒ば飲んどったけんな」
兄上は、また大きな声で笑った。
「伊織。お前は好きに訳せ。家はおいが守る」
その背中が、橋を渡っていく。
大きな背中だった。今の私には、まだ追いつけない背中だった。
数日後、ヤンセン様の部屋で、私は一枚の絵を見た。
絵師の紀下回庵殿が、ヤンセン様に頼まれて描いたものだという。
腕に黒い筋の入った、日に焼けた男の腕。
その腕に抱かれて眠る、小さな女の子。
回庵殿は、弥七の長屋を訪ねて描いたのだそうだ。
出島の外へ出られないヤンセン様の代わりに、その目となって。
「コレ、オランダ、オクル」
ヤンセン様は、その絵を大切そうに、標本の束の上に置いた。
言葉の通じない遠い国の人々に、この絵は、何を伝えるのだろう。
盗人の腕か。父親の腕か。
回庵殿は、そのどちらも、削らずに描いていた。
【登場人物】
今村伊之輔……今村家の長男。23歳の若さで小通詞となった傑物。身長は伊織より高く、ヤンセンより少し低い。豪快で弟思い。豪快さに隠れているが、実は伊織に劣らず耳がよく、若くして小通詞に就いている実力者。
紀下回庵……ブロンホフの家族の肖像画や出島の見取り図、ビリヤードをしている様子や植物、魚などの絵をオランダに送り続けたヨハンおかかえの画家。モデルは実在の画家・川島慶賀。




