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第三話 「山師」

文政七年、秋。


ヤンセン様の部屋は、草の匂いで溢れていた。


床一面に、押し葉にした草花が並べてある。

ヤンセン様が長崎に開いた塾の塾生たちが、長崎の山々を歩き回って集めてきたものだ。


私の仕事は、その一枚一枚に日本の名を書き添えること。


ヤンセン様がそれをオランダ語で帳面に書き写し、来月出ていく船に積んで、遠い国へ送るのだという。

「イオーリ、コレ、ナニ」

「ツワブキです。石蕗、と書きます」

「ツワ、ブキ」


ヤンセン様は、その音を口の中で転がすように繰り返し、帳面に書きつけた。

変わった方だ、と思う。


あの荷揚げ場の一件から、もう三月になる。人足の腕は無事にふさがり、玄伯先生は約束どおり、三日にあげず『解体新書』の写本を抱えて私の家に押しかけてくるようになった。「教わりに来たのではない、確かめに来たのだ」と言いながら。


そしてヤンセン様は、相変わらず片言の日本語しか話さない。


あの夕刻、廊下の角で聞いた流暢な一言は、私の聞き違いだったのではないか。

そう思うことさえある。


障子の向こうの光が、少しずつ赤みを帯びてきた。


ヤンセン様は棚から赤い葡萄酒の瓶を出し、硝子の杯に注いだ。

「イオーリ、ノム?」

「いえ、私は勤めの身ですので」

「マジメ。イワシタ、ミタイ」


それは褒め言葉ではないと思う。

ヤンセン様は一人で杯を傾け、押し葉の束を眺めながら、オランダ語で独り言を言い始めた。

酒が入ると、この方はよくこうなる。故郷の言葉で、誰に聞かせるでもなく何かを呟く。

私は筆を動かしながら、その声を聞くともなく聞いていた。

いや、聞くともなく、というのは嘘だ。


異国の言葉が聞こえると、私の耳は勝手にそれを拾ってしまう。

物心ついたころから、そういう耳だった。


「……Het schip vertrekt over een maand.」

船は、ひと月後に出る。

他愛もない独り言だった。


だが、私の筆はそこで止まった。


シップ、と、ヤンセン様ははっきりと言った。


出島に来るオランダの船乗りたちは、船のことを「スヒップ」と言う。

喉の奥をこするような、あの国の言葉に独特の音だ。


私は子どものころから、荷揚げ場で何百回とその音を聞いてきた。


だが今、ヤンセン様の口から出たのは、舌の先で柔らかく撫でるような「シ」だった。


思い返せば、一度ではない。

この方の言葉には、ときどきこういう音が混じる。

ブロンホフ様や、今の商館長であるステュレル様や、船乗りたちとは、どこか違う響きだ。


「ヤンセン様」

気づけば、口が勝手に動いていた。

「今の、船の言い方。オランダの方々とは、少し違うように聞こえました」


杯が、止まった。

部屋の中で、草の匂いだけが動いていた。


ヤンセン様の淡い色の目が、私をじっと見ている。


その目は、酔っているようには見えなかった。

やがて、ヤンセン様はにっこりと笑った。いつもの、人懐っこい顔だった。

「ワタシ、オランダノ、ヤマノホウ、ウマレ。コトバ、チョット、チガウカラ、カモ」


山の方の生まれだから、言葉が少し違う。

私は黙って、ヤンセン様の顔を見返した。


オランダには、山がない。


稽古通詞になったばかりのころ、年寄りの船乗りが、荷の上に地図を広げて教えてくれたことがある。

オランダは、海を堤で囲み、水を掻き出して作った土地だと。


国の大半が海よりも低く、いちばん高い丘でさえ、長崎の山の足元にも届かないのだと。

そのとき船乗りは、誇らしげにこう言った。

神が世界を作ったが、オランダはオランダ人が作ったのだ、と。


山の方の生まれ。

山のない国の、山の方。


日本では、山に入って鉱脈を探す者を山師と呼ぶ。

そして、ありもしない鉱脈をあると言いくるめて人を欺く者のことも、同じく山師と呼ぶ。


この方は、山師だ。

この方は、嘘をついている。

そして、私がそれを知っていることを、この方もたぶん、知っている。


問いただすべきだった。

通詞の務めとしては、そうすべきだった。

異人の言葉に不審があれば、上役に届け出る。


それが決まりだ。岩下様なら、迷わずそうなさるだろう。

だが、私の頭に浮かんだのは、あの夏の日の荷揚げ場だった。

噴き出す血。人足の腕を締め上げる大きな手。

玄伯先生の藍の羽織が、地面に落ちる音。


この方は、見ず知らずの日本人の人足のために、誰よりも先に駆けてきた。

荷の間を跳び越えて、膝が血で汚れるのも構わずに。


この方が何者であれ、あの手は、嘘ではなかった。

「……そうでしたか。山の方の」

私はそれだけ言って、筆を取り直した。


次の押し葉に手を伸ばす。

赤い実の残った枝。ナンテン。南天、と書く。


しばらく、部屋には筆の音だけがあった。

やがて、ヤンセン様が小さく息をつくのが聞こえた。

「……ブロンホフさんの言った通りだ」


流暢な、日本語だった。

顔を上げると、ヤンセン様はもう杯に葡萄酒を注ぎ足していた。

こちらを見もせずに、片言で言う。


「イオーリ。ナンテン、オランダゴ、ナンテ、イウ?」

「……それを調べるのが、ヤンセン様のお仕事でしょう」

「ソウカ、ソウダネ」

ヤンセン様は楽しそうに笑い、南天の押し葉を、窓から差し込む夕日にかざした。


遠くで、門の刻限を告げる太鼓が鳴った。


日本人は、出島を出なければならない時刻だ。

私は筆を置き、帳面を閉じた。

立ち上がって頭を下げる私に、ヤンセン様は片手をひらひらと振った。

「イオーリ、マタ、アシタ」

「はい。また明日」


出島橋を渡りながら、私は一度だけ振り返った。

夕闇に沈んでいく扇形の島の中で、ヤンセン様の部屋の窓だけが、まだ赤く光っていた。


あの方の嘘を、私はいつか、訳さなければならない日が来るのだろうか。

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