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第二話 「動脈」

悟桐玄伯…伊織より一回り上の漢方医。30歳。既婚。長崎では知らぬ者のいない切れ者の漢方医であり、患者を見るだけで必要な漢方薬を処方でき、漢方の知識も豊富。ただ、その立場上蘭方医をこの上なく嫌っている。


※1 交易に使用する部屋。オランダからの貿易品を鑑定する部屋でもあり、ここで貿易品の鑑定・数の仕訳などが行われることが多く、オランダ人と話す阿蘭陀通詞はここに詰めていることが多い。

文政七年、夏。出島の荷揚げ場には、銅の匂いが満ちていた。


オランダ船に積み込まれる棹銅(さおどう)の木箱が、人足たちの肩から肩へと渡っていく。その列の脇で、私は帳面に数を書きつけていた。


ブロンホフ様が去ってから、半年あまりが過ぎた。


あの日のお言葉どおり、私はヤンセン様の付き通詞を命じられた。

とはいえ稽古通詞の務めがなくなるわけではない。

医者の通訳がない日は、こうして荷の数を数えている。なお、日本人で出島に入れるのは遊女くらいのものだ。

(オランダ語を訳すために、この家に生まれたはずなんだがな)


筆を止めたとき、背後から芝居がかった声がした。

「おや。今村の次男坊ではないか。今日も算盤(そろばん)係かね」


振り返ると、鮮やかな藍の羽織を着た男が、扇子で口元を隠して立っていた。


梧桐玄伯(ごとうげんはく)先生。

長崎の町で知らぬ者のない漢方医である。

脈を取らせれば長崎一、という評判と同じくらい、名前の話でも知られている。


江戸で名高い蘭(・)方(・)医(・)、杉田玄白先生と一字違い、一音違い。


そして本人は、それを何より嫌っている。

「玄伯先生。なぜ出島に」

「往診だよ。さる御方のな」

 先生が意味ありげに視線を流した先、通詞部屋の窓から、大通詞の岩下威佐重様が慌てて顔を引っ込めるのが見えた。

(……岩下様の、胃の薬か)


あの岩下様が、町医者の、それも漢方医の薬を。

聞かなかったことにしようと思った、そのときだった。


鈍い音と、悲鳴。


積み上げた木箱の山が崩れていた。仲間が慌てて箱をどけると、下から若い人足が這い出してくる。

その左腕が、ざっくりと裂けていた。


割れた箱の角で切ったのだ。


血が、噴いた。


ただ流れるのではない。

どくん、どくんと、間を置いて跳ね上がる。

夏の日を受けて、その赤は妙に明るかった。


足が、動かなかった。

帳面を握りしめたまま、私はその赤い跳ね方から目を離せずにいた。


「Ga uit de weg!」

人垣の向こうから、オランダ語の怒声が飛んできた。「そこをどけ」。


ヤンセン様だった。


長い脚で荷の間を跳び越えるように駆けてくる。ふだんの、のんびりとした片言の笑顔はどこにもない。

ヤンセン様は人足の傍らに膝をつき、傷を一目見るなり叫んだ。

「Slagader! Het is de slagader!」

スラハアーデル。

頭の中で、言葉が引っかかった。

slag は、打つこと。

ader は、管。


打つ管。

見た覚えがある。稽古の書物で、『解体新書』の訳語の中で。


「動脈です! 動脈が切れていると!」

私が叫ぶのと同時に、藍の羽織がすっと人足の反対側に膝をついた。


玄伯先生は扇子を帯に差し、迷いなく人足の右の手首を取った。

二本の指が、慣れた手つきで脈の上に置かれる。

「脈、浮にして数(さく)。血を失うて、気が上ずっておる。まずは気を鎮める薬を――」


「Nee! Nee!」

ヤンセン様が、玄伯先生の手を払いのけた。

「なんだこの蘭人は?私に対して失礼な……」

「そんなこと言っている場合ではないでしょう玄伯先生!ヤンセン先生は『違う』と言っています」


そして人足の左腕を、傷よりも肩に近いところで、両手で締め上げる。

大きな手だった。半年前、水門の前で私が握った、あの乾いた温かい手だ。


ヤンセン様が私を振り向き、早口で何かを怒鳴った。

私は全身を耳にした。


Bind het af.

縛れ。


Boven de wond.

傷の、上を。


Een doek.

布を。


Een stok.

棒を。


Snel!

急げ。


私はヤンセン様に力強く頷くと、叫んだ。

「手拭いを! それと、何か棒を!」

人足仲間の一人が首の手拭いをむしり取って差し出す。ヤンセン様がそれを腕に巻きつける。

だが玄伯先生は動かなかった。払われた手を宙に浮かせたまま、腑に落ちない顔で眉を寄せている。

「今村の。動脈とは何だ」

「……え」

「脈ならわたしが今、診ておった。脈とは気の巡りであろう。なぜ縛る。縛れば気が滞るではないか」

言葉に詰まった。

動脈。動く脈。訳語は正しい。書物の通りだ。私は一字も間違えていない。

なのに、目の前の長崎一の漢方の名医に、何ひとつ伝わっていない。


玄伯先生の言う「脈」と、ヤンセン様の言う「スラハアーデル」は、同じ字を当てながら、まるで別のものを指しているのだ。

玄伯先生にとって脈は、手首に触れて聞く、目に見えない気の流れ。

ヤンセン様にとっては、血の通う、手でつかめる管。


稽古で教わった訳語を、もう一度言えばいいのか。もっと大きな声で、「動脈です」と。


血が跳ねる。どくん。どくん。


人足の顔から、見る間に色が引いていく。唇が紫になりかけている。

(訳語では、間に合わない)

気づいたとき、私は自分でも驚くほど大きな声を出していた。

「玄伯先生、手首ではなく、傷を見てください!」


先生の目が、私から傷口へと落ちた。

「心の臓が血を押し出すたびに、ここから噴いているんです。脈を打つたびに、命がこぼれているんです。だから、心の臓に近い側で、血の道を塞ぐんです!」


ヤンセン様は、そんなことは言っていない。

縛れ、傷の上を、と言っただけだ。

心の臓も、命がこぼれるも、私が勝手に足した言葉だ。


一瞬の、沈黙があった。

玄伯先生は、もう一度、人足の手首に指を当てた。


その目は、手首ではなく、傷口から噴く血を見つめていた。

指に伝わる拍動と、血が跳ねる間合い。どくん。どくん。

それが、ぴたりと重なるのを、先生は見たのだと思う。

長崎一と言われる指で、誰よりもはっきりと。


「……なるほど」

低い声だった。

「脈とともに、跳ねておるのか」

次の瞬間、先生は藍の羽織を脱ぎ捨てていた。


「棒をよこせ! ぐずぐずするな!」

人足仲間の手から天秤棒の折れた端をひったくり、ヤンセン様が巻いた手拭いの結び目に差し込む。

ヤンセン様が目で合図し、先生がそれを、きりきりと捻り上げた。


人足が呻いた。

跳ねていた血が、しだいに弱まり、やがて、止まった。


荷揚げ場に、どっと息が漏れた。

私はそのとき初めて、自分の手が帳面を握りつぶしていたことに気づいた。


ヤンセン様は額の汗を腕で拭うと、玄伯先生に向かって、にっこりと笑った。

いつもの、人懐っこい顔に戻っていた。

「アリガト、ゴザイマス。ゲンパク、センセイ」

パ、と、ヤンセン様ははっきり言った。


私の耳は、聞き逃さなかった。

ヤンセン様の片言は、たいてい音がぼやけている。

なのに今の「パ」だけは、わざとらしいほどくっきりとしていた。


「わたしは悟桐・げん「はく」だ! 「ぱく」ではない! あの蘭方医と一緒にするな!」

玄伯先生の怒声に、張りつめていた人足たちが一斉に吹き出した。

「イオーリ。ゲンパクセンセイ、オコッテル?」


ヤンセン様の言葉に、肩をすくめてオランダ語で話す。

「Schaar mij niet onder die beoefenaar van westerse geneeskunde.」

(あの蘭方医と一緒にするな、と。)


「Aangezien Genhaku-sensei beoefenaar is van de traditionele Kampo-geneeskunde, vindt hij het niet prettig om met Sugita Genpaku vergeleken te worden.」

(玄伯先生は漢方の医学者ですので、杉田玄白先生と比べられるのはお嫌いなのです)


「死んでなお今も名が売れておるとは、まったく優秀で腹の立つ爺さまだ」

玄伯先生も、蘭方医ではあるけれども、医学者として、翻訳家として、杉田翁のことを尊敬はしているのだろうな、と、私は思った。


--------------------------------------


その日の夕刻、門が閉まる前。

通詞部屋に呼び出された私を待っていたのは、岩下様の、岩のように動かない顔だった。

「今村。昼の件、聞いた」

「はい」

「あの医者――ヤンセン様は『動脈が切れている、傷の上を縛れ』と言った。お前はそれを訳した。そこまではよい」


岩下様は、ゆっくりと茶をすすった。

「だが。『心の臓が血を押し出すたびに』『命がこぼれる』。ヤンセン様はそんなことを言ったか」

眼の前に稲妻が走ったような気がした。

「……言っておりません」

「通詞は訳すだけだ。言葉を足すな」


岩下様は湯呑みを置くと、腹のあたりを、そっと押さえた。

「足した言葉に誤りがあれば、罪に問われるのはお前だ。いや、お前の家・今井家だ。それをゆめゆめ忘れるな」

私は頭を下げた。返す言葉は、なかった。


人足は助かった。

それでも私は、決まりを破った。

どちらも本当のことで、どちらを先に言えばいいのか、私には分からなかった。


乙名部屋(※1)を出ると、廊下の暗がりに、藍の羽織が立っていた。

「玄伯先生」

「勘違いするなよ、今村の次男坊。わしは礼を言いに来たのではない」

先生は扇子を、ぱちりと閉じた。

「ただな」


少し間があった。

「あの言い方なら、分かった」

そう言って、懐から一冊の写本を取り出し、私の胸に押しつける。

表紙には『解体新書』とあった。

「この中の、わしに分からん言葉を、全部教えろ。蘭方に負けたままでは、梧桐玄伯の名が泣く」

「先生、それは」

「今日はこのくらいにしておいてやる」

先生はくるりと背を向け、去っていった。


羽織の背中に、昼の血の染みが、黒く残っていた。


その後ろ姿を見送る私の背中に、ふいに、流暢な日本語が降ってきた。

「いい通詞になりますよ、あなたは」

振り向くと、廊下の角に、ヤンセン様が立っていた。

月明かりを背にして、静かに笑っている。


「ヤンセン様……今、日本語で」

「ナンノコト?」

ヤンセン様は、とぼけた顔で肩をすくめた。

「ワタシ、ニホンゴ、スコシシカ、ワカラナイ」


そして、オランダ商館、医務室として設えられた建物の方へ歩き去っていった。


私は廊下に一人残され、胸に押しつけられた写本の重さを感じていた。


訳すだけか。足すか。

その答えを、私はまだ持っていなかった。

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