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第一話 「出島」

文政六年、晩秋。長崎の海は、もう冬の色をしていた。

出島の水門の前に、通詞たちが二列に並んでいる。帰国の途につくオランダ商館長(カピタン)、ヤン・コック・ブロンホフ様を見送るためである。


私、今村伊織は、その列のいちばん端にいた。

稽古通詞になって、まだ半年。見送りの列に加えてもらえたのは、通詞一族である今村家の名があったからにすぎない。前に並ぶ大通詞や小通詞たちの背中は、ひどく遠かった。

(6年も商館長を務めた方だ。最後の言葉くらい、聞き取りたい)


水門の向こうでは、小舟が沖のオランダ船へ渡すための荷を積んでいる。

潮の匂いに、樟脳の匂いがかすかに混じっていた。


やがて、商館の方から一団が歩いてきた。

先頭はヤン・コック・ブロンホフ様に間違いないだろう。

白くなりかけた髪を風になびかせ、ゆっくりと通詞たちの前を進んでいく。

若い自分にも、その大きな姿はわかった。


そのすぐ後ろに、見慣れない異人が一人ついていた。

この夏、新しい商館長・ステュレル様が続き、その後ろ。さらに大きな体躯。ステュレル様とともに来た医者だという。背が高く、目の色が淡い。


名はたしか、ヨハン・ヤンセン様。


ブロンホフ様は通詞の一人ひとりに声をかけていった。

オランダ語で短く、礼を言っている。


私は息を詰めて、その一語一語を拾った。


列の中ほどで、ブロンホフ様の足が止まった。


大通詞、岩下威佐重(いわしたいさしげ)様の前だった。


岩下様は、出島でいちばん融通の利かない男として知られている。

規則を破った者には、身内でも容赦しない。通称、「石頭の岩下」。

私も稽古通詞に入ってから、何度叱られたか分からない。


ブロンホフ様が、岩下様に何かを言った。


私は耳を疑った。

(……オランダ語では、ない。なんだ、今の言葉は)

音の運びが違う。言葉の切れ目が違う。オランダ語に似ているようで、まるで掴めない。

そして岩下様が、同じ響きの言葉で、短く答えた。


ほんの一言か二言。だがそのとき、その名の通り、岩のように動かない岩下様の顔が、わずかに揺れたのを、私は確かに見た。

ブロンホフ様は岩下様の肩に手を置き、それから振り返って、後ろの若い医者を手招きした。

ヤンセン様が進み出る。


ブロンホフ様は今度はオランダ語で、列全体に聞こえるように言った。

「この男、ヨハン・ヤンセンが、これから出島の医者だ。専門は外科と産科だが、基本は何でもできる。腕はいい。どうか、力になってやってほしい」


(産科……???)

私は目を見開いた。少なくとも今まで、出島の医師で産科を専門にしている者などいなかった。

産科は産婆の仕事ではないのか。


いったん、通詞たちが頭を下げる。

ブロンホフ様は列を見渡し、そして、なぜか端の方へ目をやった。


私と、目が合った。

「あの若い通詞は……?」

ブロンホフ様が岩下様に尋ねているようだ。

「今村の家の次男にございます。まだ稽古の身で」

「今村だったのか」

ブロンホフ様の口元が、ほころんだ。

「あれをつけてやりなさい。わしはこの半年、あの子を見ておった。荷を数えながら、ずっと、わしらの話を聞いておる。わしが育てた志筑(しづき)、吉雄、本永、西。その系譜に通じる顔をしておる」


何を言っているんだ。私をつける?

誰に。志筑様?吉雄様?

みな、この界隈では誰でも知っている大通詞ではないか。


それに通じる?私が?


そして、まさか、あの新しい医師に私をつける?


ブロンホフ様は、私に向かって、まっすぐに言った。

「De jongen heeft goede oren.」

――この子は、耳がいい。

私は、その意味をはっきりと聞き取った。

聞き取れてしまったことに、顔が熱くなった。


ヤンセン様が、私の前まで歩いてきた。

頭ひとつ高いところから、淡い色の目が見下ろしてくる。


何を言われるのかと身構えた私に、ヤンセン様は人懐っこい顔で笑いかけた。

「ハジメマシテ。ワタシ、ヨハン・ヤンセン。ニホンゴ、スコシ」


あまりに拙い日本語に、私は思わず肩の力が抜けた。

「……今村伊織と申します」

「イオーリ」

「イオリ、です」

「イオーリ」

訂正は、どうやら通じなかった。


ブロンホフ様を乗せた小舟が、沖の船へ遠ざかっていく。


通詞たちが三々五々引き上げていくなか、私は岩下様の背中を追いかけた。

「岩下様」

「何だ」

「先ほど、ブロンホフ様は、何とおっしゃったのですか。オランダ語では、なかったように聞こえましたが」

岩下様は足を止めなかった。

「お前には関係ない」

「ですが」

「稽古通詞の分際で、大通詞の話に耳をそばだてるな」


岩下様はそれだけ言い捨て、通詞部屋の方へ去っていった。

その手が、ほんの一瞬、腹のあたりを押さえたように見えた。


私は出島の水門の前に立ち尽くし、沖を見た。


オランダ船の帆が、冬の光を受けて白く膨らんでいく。

その少し後ろで、ヤンセン様もまた、同じ船を見送っていた。


さっきまでの人懐っこい笑みは消え、彼は、ひどく静かな顔をしていた。

まるで、もう二度と会えない誰かを見送るような顔だった。


私の視線に気づくと、ヤンセン様はすぐに人懐っこい笑顔に戻り、片手を差し出した。


握手。

これが、握手か。

西洋では、お辞儀の代わりにこうして手を握り合うのだと聞いたことがある。身分の上下ではなく、互いを対等と認める挨拶なのだと。


稽古通詞の私が、異人の医者の手を取ってよいものか。一瞬ためらってから、私はおそるおそるその手を握った。

大きく、乾いた、温かい手だった。


「よろしくお願いします、ヤンセン様」

「イオーリモ、コレカラ、ヨロシク」


文政六年の冬が、始まろうとしていた。


実在の歴史と、架空が入り混じる1820年代からペリー来航付近までの長崎・出島を扱った、若きオランダ通詞と、オランダ医師の物語です。


【今のところの登場人物】

今村伊織…18歳。稽古通詞。今村家は通詞の一族。次男で、落ち着いた性格。

ヤン・コック・ブロンホフ…1817年に商館長になった実在の人物。妻のティティアは美人として有名で、多くの絵が残されている。実在の人物。

ヨハン・ウィレム・デ・ステュレル…ブロンホフの跡を継いだオランダ商館長。一癖ある人物。実在の人物。

ヨハン・ヤンセン…ネーデルラント・ヘルレ公国出身と名乗るオランダ人医師。専門は外科と産婦人科。優しい性格だが、謎の多い人物。日本語は少し話せる程度。

岩下威佐重…35歳にして大通詞となった天才。頑固で融通が利かない、通称「石頭の岩下」。耳がとても良い。

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