第十一話 「颱風」
文政十一年、23歳の春は、静かに過ぎていった。
尾張の木島殿は、半年の遊学を終えて、桜の散るころに長崎を去った。
鳴滝の門の前で、何度も何度も頭を下げて。
去り際、慶介殿は、出島の植物園の草木の名を、三百あまり書き連ねた帳面を、ボス様に預けていった。ヤンセン様が日本中から集めた草木の、日本の名と、唐土の名と、西洋の名。
華殿の手が入った漢名も、いくつも混じっていた。
「この庭は、日本でいちばん豊かな庭です」
慶介殿は、そう言って笑った。
その庭が、半年後に消えてしまうことを、そのとき誰も知らなかった。
春の終わり、江戸からの知らせが、岩下様のもとに届いた。
通詞部屋の奥で、岩下様が書状を読んでいた。いつもより長く、何度も、同じところを読み返しているようだった。
「今村」
呼ばれて、私は膝を進めた。
「江戸で、妙な話が出ておる」
岩下様は、書状を畳んだ。
「間宮林蔵という方が、異人から届いた包みを、封も切らずに、お上に差し出されたそうだ」
私は、息を止めた。
間宮林蔵。
2年前、長崎屋で、最上徳内殿が地図の上を扇子で指しながら口にした名前。
樺太を歩いて、島であることを確かめた男。
私が、訳しようのないまま、オランダ語の中にそっと置いた名前。
「異人と私に文をやり取りすることは、ご公儀の禁制だ。間宮様は、それを守られた。正しいことをなさった」
岩下様は、私の目を見なかった。
「その包みは、天文方の、さるお方を通じて届いたものだったという。今、そのお方のまわりに、お調べが入っておるらしい」
天文方。
一年前の夜、ヤンセン様の部屋の隅にあった、油紙の包み。
差出人の名は、江戸の、天文方の誰か。
めくれた油紙の隙間から、細い線が走っていた。海と陸の境目の線。この国の形。
私の手が、膝の上で、勝手に震え始めた。
「今村」
岩下様が、低い声で言った。
「お前は、何も見ておらん。何も聞いておらん。よいな」
「岩下様、私は」
「よいな」
岩下様は、それ以上、何も言わせなかった。
私は、頭を下げることしかできなかった。
そして、その夜も、次の夜も、眠れなかった。
私は、1年前から知っている。
ヤンセン様が、オランダ人ではないことを。
妙殿への手紙の、最後の一行。
Ich liebe dich。
高地の言葉。山の方の言葉。
それを私は、誰にも言わずに、一年間、胸の奥にしまってきた。
しまっておけば、何も起きないと思っていた。
けれど、言葉は、しまっておいても、消えはしないのだ。
その年の秋、長崎を、大風が襲った。
昼過ぎから空の色がおかしかった。
海の向こうに、紫がかった雲が、壁のように立ち上がっていた。
港の船乗りたちが、口々に「これは来るぞ」と言い合い、舫いを二重三重に締め直していた。
日が暮れると、風が吼え始めた。
雨が、横から叩きつけてくる。
家の柱が、ぎしぎしと鳴る。
どこかで瓦が飛び、どこかで何かが倒れる音がした。
夜半、兄上が、ずぶ濡れで家に飛び込んできた。
「伊織! 出島がやられとる! 高波が島ば越えよる!」
私は、何も考えずに飛び出していた。
長崎の町を、風に押し戻されながら走った。
顔に当たる雨が、礫のように痛い。
出島橋にたどり着いたとき、橋の向こうの扇形の島は、黒い波に半ば呑み込まれていた。
門番たちが、総出で門を押さえていた。こんな夜に、門の決まりなどあったものではなかった。
「通詞の今村伊織です! 中に入れてください!」
門番の一人が、私の顔を見て、黙って門を少しだけ開けた。
島の中は、地獄だった。
高波が石垣を越え、島の中ほどまで海水が流れ込んでいた。
倉の戸が破られ、荷が水に浮いている。
オランダ人たちが、腰まで水に浸かりながら、何かを叫び合っていた。
そして、島の奥。
ヤンセン様の植物園があった場所。
そこには、もう、庭はなかった。
塩水が、すべてを覆っていた。
日本中から集めた草木が、根こそぎ引き抜かれ、泥と一緒に、渦を巻いて流れていた。
その真ん中に、ヤンセン様が立っていた。
膝まで泥に浸かり、両手に、ぐったりとした苗を一本、握りしめていた。
「ヤンセン様!」
ヤンセン様が、振り返った。
風の音で、何を言ったのかは聞こえなかった。
けれど、その口の形は、片言ではなかった。
私は、泥の中に飛び込んだ。
それから夜が明けるまで、私たちは、二人で泥の中を這い回った。
流されていく苗を拾い上げ、まだ根の残っているものを、高いところへ運ぶ。
塩をかぶった葉を、真水の桶で洗う。
ボス様がどこからか桶を運び、回庵殿が、灯りを掲げてくれた。
誰も、何も話さなかった。
ただ、手を動かした。
夜明け前、風が少しずつ弱まってきたころ、ヤンセン様が、泥だらけの手で、一本の小さな木を私に差し出した。
赤い実が、二つだけ、枝に残っていた。
南天だった。
「イオーリ」
ヤンセン様は、片言に戻っていた。
けれど、その声はかすれていた。
「ナンテン、オランダゴ、ナンテ、イウ?」
三年前、夕陽の差す部屋で、同じことを聞かれた。
私はあのとき、それを調べるのはヤンセン様のお仕事でしょう、と答えた。
今度は、私は答えた。
「……Nandina、です。羅甸の名で。オランダの人ではない、遠い北の国の学者が、つけた名だと」
ヤンセン様の目が、大きく見開かれた。
それから、泥だらけの顔で、くしゃりと笑った。
「イオーリ。ヨク、シッテル」
「調べました。いつか、聞かれると思って」
ヤンセン様は、何も言わずに、私の肩に、泥だらけの手を置いた。
大きく、乾いてはいなかったけれど、温かい手だった。
5年前、水門の前で、初めて握った手と、同じ手だった。
大風が過ぎて、半月ほど経ったころ。
出島の港に、座礁したオランダ船が、まだ傾いたまま横たわっていた。
島じゅうで、倉の修繕と、流された荷の片付けが続いていた。
その混乱のさなか、江戸から、二度目の知らせが届いた。
天文方の高硲徹栄様が、捕らえられた。
それを聞いた日の夕刻、私は、ヤンセン様の部屋の前を通りかかった。
障子の向こうから、灯りが漏れていた。
まだ門の刻限には間がある。
けれど、部屋の中からは、何かを急いで書き写すような、紙と筆の擦れる音が、ずっと聞こえていた。
ヤンセン様と、ボス様の、二人分の音だった。
私は、障子に手をかけかけて、やめた。
開ければ、見てしまう。
見てしまえば、私は、通詞として、それを届け出なければならない。
私は、手を下ろした。
そして、そのまま廊下を歩き去った。
背中で、筆の音が続いていた。
私は、自分が今、何をしたのか、分かっていた。
間宮林蔵という人は、異人からの包みを、封も切らずにお上に差し出した。
決まりを守った。正しいことをした。
私は、障子を開けなかった。
決まりを、守らなかった。
どちらが正しいのか、私には分からなかった。
それから、三日後の朝だった。
出島橋の向こうから、奉行所の役人たちが、列をなしてやってきた。
門番たちが慌てて道を開け、島じゅうの者たちが、何事かと手を止めた。
役人たちの先頭を、一人の男が案内していた。
痩せた、長身の影。
ヘトルの、ウェイデン様だった。
ウェイデン様は、まっすぐに、ヤンセン様の部屋へと役人たちを導いていった。
途中で一度だけ、私のほうを見た。
その目には、何の色もなかった。勝ち誇るでもなく、憐れむでもなく。
ただ、決まりを守った者の目だった。
役人の一人が、ヤンセン様の部屋の前で、声を張り上げた。
「異人ヤンセンが所持の品、すべて改める!お奉行のお達しである!」
部屋の中から、目にクマを作ったヤンセン様が出てきた。
落ち着いた顔だった。
まるで、この日が来ることを、ずっと前から知っていたかのように。
役人は、続けて言った。
「異人ヤンセン、本日より、お許しあるまで、この出島より一歩も出ること、まかりならぬ」
ヤンセン様は、ゆっくりと頭を下げた。
そして、顔を上げたとき、その目が、私を探した。
目が合った。
ヤンセン様は、何も言わなかった。片言も、流暢な言葉も。
ただ、ほんの少しだけ、首を横に振った。
何もするな、と。
お前は、何も知らない。何も見ていない。
いつか岩下様が言ったのと、同じことを、その目は言っていた。
役人たちが部屋に入っていくのを、私は、ただ見ていた。
その日の夕刻、岩下様が、私を呼んだ。
「今村」
岩下様の顔は、石のようだった。
けれど、その石には、細いひびが入っているように見えた。
「お奉行所から、お達しがあった。ヤンセン殿の吟味に、通詞を出せと」
私は、顔を上げた。
「お前だ」
息が、止まった。
「オランダの通詞の中で、ヤンセン殿の言葉を、いちばんよく知っておるのは、お前だ。お奉行は、そう判断された」
岩下様は、私の目を、まっすぐに見た。
「今村。何を見ても、何を聞いても、お前は通詞だ。訳すことだけを考えろ」
「……岩下様」
「足すな。削るな」
そして、ほんの少しだけ、声を落とした。
「それが、今度は、お前とヤンセン殿を守る」
私は、答えられなかった。
窓の外では、大風の爪痕の残る港に、傾いたオランダ船の帆柱が、夕陽の中に黒く突き立っていた。
大風は、過ぎた。
けれど、本当の嵐は、これから来るのだ。




