『公爵令嬢、家族や家庭教師にインフルエンスする』
「……知らない天井だわ――って, ここは!?」
エレノアは跳ね起きるようにして、上体を起こした。
視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど豪華な天蓋付きのベッド。
そして、職人の手による精緻な彫刻が施された、広大な客間の光景だった。
あまりの場違いさに混乱するエレノアの頭に、気絶する直前の記憶が鮮明によみがえる。
(そうだわ、私……ルーナティア様のお言葉を聞いて、そのまま……!)
始まりは、雷や水の術式へのバグ指摘だった。
だが、ルーナティアのデコードとデバッグは、土、風、そこで火に至るまで、四大魔術すべての術式に及んだのだ。
「ここ、いらない」「ここだけに火をつけるほうが楽ちん」
鈴を転がすような愛らしい声で、国や歴史が正しいと証明してきたはずの第一階梯術式を、口頭で次々と解体していく姿。
一級魔術師として積み上げてきた自分の知識が、何一つ通用しない。
その圧倒的な現実への恐怖と衝撃が、今もエレノアの心に冷たい震えを残していた。
「あら、気がついたのね。無理に動いては駄目よ、エレノア先生」
優しく、それでいて気品に満ちた心地よい声が、ベッドの傍らから掛けられた。
エレノアがハッとして視線を向けると、そこには一人の美しい女性が腰掛けていた。
長く艶やかな髪に、穏やかな慈愛を湛えた瞳。
ライ=ヴァルク公爵夫人、ソフィア。――ルーナティアの母親その人であった。
「ソ、ソフィア様……! も、申し訳ありません、私としたことが、教鞭を執る立場で取り乱し、あろうことか失神してしまうなんて……!」
エレノアは真っ青になりながら、シーツを握りしめて平伏しようとした。
公爵家の令嬢の家庭教師として招かれながら、初日から気絶するなど前代未聞の不祥事だ。即座にクビを言い渡されても文句は言えない。
だが、ソフィアは困ったように微笑むと、エレノアの手をそっと包み込んだ。
その手の温もりと柔らかさに、エレノアの肩の強張りがすっと抜けていく。
「いいのよ、謝らないで。マギウスからさっき事情を聞いて、私も耳を疑ったくらいだもの。初めての授業で、まさか四大魔術すべてのバグを指摘してしまうなんて。驚いて気を失ってしまうのも無理はないわ」
ソフィアはそっと首を振ると、気遣うように言葉を重ねた。
「カティエール魔術学園を首席で卒業したあなたなら、ルーナティアの家庭教師を安心して任せられる。そう期待してお呼びしたのは私たちだもの。あなたの優秀さに、一寸の疑いも持っていなくてよ」
男爵令嬢という身分でありながら、実力だけで歴史ある学園の頂点に立ったエレノア。
その確かな知識とプライドを、ソフィアは優しく肯定する。
「ただ……あの子の規格外っぷりが、私たちの想像を遥かに超えていただけ。悪いのは心の準備をさせなかったマギウスよ。だから、そんなに自分を責めないで?」
「ソフィア様……」
「あの子、本当に規格外でしょう? 親の私たちでさえ、時々あの子が遠い世界の住人のように思えて、怖くなることがあるの。あんなに小さな身体で、世界の真理を覗き込んでいるような目をすることがあるから」
ソフィアは窓の外に目を向け、愛おしそうに、けれど少しだけ寂しそうに目を細めた。
その言葉は、エレノアの心に深く突き刺さる。
確かにルーナティアの指摘は恐怖すら覚える代物だった。――しかし同時に、あの子はまだ三歳の、守られるべき子供なのだ。
「エレノア先生。あなたを一級魔術師として、そしてルーンの家庭教師として迎えることができて、私は本当に嬉しいの」
ソフィアはエレノアの目をまっすぐに見つめ、公爵夫人としての包容力溢れる笑みを浮かべた。
「あの子に必要なのは、正論でねじ伏せる冷徹な学者ではないわ。あの子の突飛な発想に驚き、共に悩み、それと同じ目線で寄り添ってくれる、そんな優しいお姉さんのような存在なの」
ソフィアはそう言って、包み込んでいたエレノアの手を、さらに優しく握り締めた。
「私はね、あなたにルーンの『最初の理解者』になってほしいの。どうか、あの子の傍にいてあげて頂戴」
「――ッ」
胸の奥から、熱いものが一気に込み上げてきた。
砕け散ったと思っていた一級魔術師としての誇りの破片が、ソフィアの言葉によって、温かい決意へと再構成されていく。
完璧な教師である必要はない。
あの小さな天才の、一番近くの味方になればいいのだ。
「はい……はい……! 私、至らないところばかりですが……ルーナティア様の家庭教師、精一杯がんばります……!」
エレノアの目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
涙を拭いながらも、その瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、確固たる光が宿っていた。
◇
一方その頃。
ライ=ヴァルク公爵家の当主であり、国の魔術師の頂点に立つマギウスは、外界の音を一切遮断した書斎に引きこもっていた。
「……信じられん。今まで誰も、こんな致命的な欠陥に気付かなかったのか」
山積みにされた魔術の教科書、そして羊皮紙の山。
マギウスは寝食も忘れた様子で、狂ったように羽ペンを走らせていた。
その目は血走り、しかし最高峰の学者としての歓喜にギラギラと輝いている。
彼が寝食を忘れて取り組んでいるのは、愛娘のルーンが指摘した、既存魔術の『バグ』の検証だった。
火、水、土、風の四大魔術。
伝統ある第一階梯魔術として分類されながらも、多くの魔術師を悩ませてきた『雷魔術』。
ルーンが口にした最適化の指摘を、マギウスは自らの卓越した頭脳で、魔術術式の「構造的な欠陥」として翻訳し、一つずつきれいな再構築を進めていた。
指摘通りにマナの最適化を行えば、発動速度が跳ね上がるだけでなく、無駄なマナの逆流すら一切発生しない。
「……なにより、雷の魔術。これはすぐにでも第二階梯魔術への引き上げを提案せねばなるまい」
マギウスの手が興奮で震える。
歴史上、誰も疑わなかった世界の常識。
システム設計の根本的な歪みを、わずか三歳の我が子が、口頭の指摘だけで完全に引っくり返してしまった。
だが、マギウスの作業は、複雑な術式を操る『魔術』の書き直しだけでは終わらなかった。
彼が最も熱を注いで作成しているのは、目の前にある極厚の羊皮紙――世界の根幹を成す『アカシックレコード』への、修正提案書だった。
アカシックレコードに書き込まれた定型文をキーワード一つで呼び出す『魔法』は、平易なぶん自由度が低い。
だからこそ、根本の魔術をデバッグした以上、その成果を反映した共通のひな形そのものを最適化しなければ、世界中の人々が恩恵に与ることはできない。
マギウスは魔術の再構築にとどまらず、全人類が恩恵を受ける『魔法の書き換え案』までも、同時にその提案書へと盛り込んでいくのだった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
あまりにもチートすぎる公爵令嬢。
そんな彼女を慮る両親と新任の家庭教師エレノア。
今後、ルーナティアはどう成長していくのでしょうか。
次回は、ルーナティアは五歳にまで成長します。
お楽しみにください。
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