第63話 三百年で、初めての、お願い
朝の光が、王都を、満たしていた。
街のあちこちで、まだ、思い出す声が、続いていた。けれど、私の腕輪の、七つ目の石は——いちばん奥の、自分自身の石は、まだ、暗いままだった。
「……おかしいんです」
私は、静修院の中庭で、アルヴェインさまに、言った。
「みんなが、私を、思い出してくれました。父も、妹も、母も。それなのに、私は——自分の、好きな花が、思い出せない。自分の、声が、どんな響きだったか。自分が、いつ、生まれたのか。……私は、まだ、私を、忘れています」
自分を忘れる、というのが、いちばん深い場所の恐怖だった。他人に忘れられるより、ずっと。
アルヴェインさまは、しばらく、黙っていた。
それから、言った。
「順番だ」
「順番?」
「浅い円から、消えた。だから、灯るのも、浅い円から、だ。遠い知人、使用人、社交界、友人、家門、母——六つ、灯った。残る一つは、いちばん奥。いちばん、深い。だから、いちばん、最後だ」
彼は、私の腕輪を、見た。
「君が、自分を思い出すのは、この街の、最後の一人が、君を思い出したときだ。……もう、じきだ」
その通りだった。
中庭の門の外で、まだ、名前を取り戻す、ざわめきが、続いていた。少しずつ、少しずつ、遠くなっていく。街の隅々まで、波が、届いていく。
そして——ある瞬間。
最後の一人が、思い出した。
私は、それを、はっきりと、感じた。世界の、どこか遠くで、誰かが、私の名を、思い出した。
腕輪の、七つ目の石が、灯った。
いちばん奥の、いちばん深い、自分の石が。
その瞬間、私の中に、戻ってきた。自分の好きな花。庭の、白い星形の花。自分の声。低くて、少し、かすれた声。自分の、生まれた朝。
私は、思わず、口に、出していた。
「——エステル・メルローゼ」
自分の、名前を。
誰かに呼ばれるためではなく、自分で、自分を、忘れないために。
◇
七つの石が、すべて、灯っていた。
三百年、消え続けてきた腕輪が、初めて、満ちていた。
私が、その光を、見つめていると——アルヴェインさまが、私の前に、立った。
いつもの、無愛想な顔だった。けれど、その手が、ほんの少し、震えているのが、分かった。三百年、日数を数え続けてきた、正確な手が。
「エステル」
「はい」
「君の好きな花を、私は、まだ、聞いていない」
私は、彼を、見上げた。初めて、塔に来た、あの夜。彼は言ったのだ。「好きな花は、聞いていない。これから、聞く」と。
「三百年で、四百七種の花を、覚えた」
彼は、言った。
「けれど、君の好きな、一種だけ、まだ、記録に、ない」
風が、中庭を、渡った。
「三百年で、初めての、お願いがある」
彼の声は、低く、静かだった。饒舌ではなかった。ただ、一つ一つの言葉が、正確だった。
「これから、毎年、君の好きな花を、聞かせてほしい。君の声を、君の生まれた朝を、君の、全部を——私に、覚えさせてほしい」
彼は、一度、言葉を、切った。
「三百年、私は、覚えることを、仕事にしてきた。頼まれたから。そういう、決まりだったから。……だが、覚えたいと、自分から願ったのは、君が、初めてだ」
彼は、私の手を、取った。手袋を、外した、素手で。
「君の名前を、私の隣に、書きたい。婚姻の、記録として。——書類にも、残す。心にも、残す。両方だ。……結婚して、ほしい」
三百年で、初めての、お願いだった。
数字と、記録と、行動でしか、愛を言えない人の、精一杯の、言葉だった。
私は、泣いていた。けれど、笑っていた。
「はい」
私は、言った。
「——覚えていてください。私の、全部を。私も、あなたの、全部を、覚えます。三百年でも、四百年でも。どちらかが、先に忘れる日が来ても、片方が、覚えている。両方で、一つです」
彼が、私を、抱き寄せた。
三百年、喪失が一切薄れない、ということの重さを、私は、少しだけ、分かっていた。この人は、これから、私と過ごす日々の、一日も、忘れない。私が笑った顔も、泣いた顔も、いつか私が先に老いていく姿も、全部、昨日のように、覚え続ける。
それは、優しいばかりの約束では、ないはずだった。
それでも、この人は、「覚えさせてほしい」と、言った。忘れるより、覚える痛みを、選んだ。私のために。
「アルヴェインさま」
「なんだ」
「私の好きな花は、白い、星の形の花です。……いちばん最初に、お教えします。四百八種目に、覚えてください」
彼は、頷いた。ほんの少しだけ、口の端が、上がった。三百年で、初めて見る、笑顔のようなものだった。
「覚えた。忘れない」
朝の光が、二人を、包んだ。
◇
そのとき、だった。
腕輪の、七つの石が、いっせいに、ひときわ強く、光った。花が咲くように。何かに、応えるように。
私にだけ、聞こえる、声がした。
遠くて、けれど、すぐそばで。私の声に、どこか、似た、声で。
——ようやく、見つけた。
私は、顔を、上げた。中庭には、私とアルヴェインさまの、二人きり。ほかには、誰も、いなかった。
「……今、何か」
「どうした」
「いいえ」
私は、腕輪を、見た。
七つの石は、もう、静かに、灯っているだけだった。何ごともなかったように。
けれど、私には、分かった。何かが——三百年、待っていた何かが、いま、私を、見つけたのだと。
それが、誰なのかは、まだ、分からないままで。
お読みいただきありがとうございます。
解呪の朝。最後の一人が私を思い出したとき、七つ目の石が灯り、私は、自分を、取り戻しました。
そして、アルヴェインさまが。三百年で、初めての、お願いを、口にしました。「結婚して、ほしい」と。数字と記録でしか愛を言えない人の、精一杯の言葉でした。
けれど、七つの石が強く光ったとき——私にだけ、声が聞こえました。「ようやく、見つけた」と。それが、誰なのかは、まだ、分かりません。
次回、第64話「塔へ帰る」。
後始末を終えて、私たちは、北へ帰ります。母を連れて。「初めまして」から、「ただいま」へ。
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蒼空ルーシェ




