第62話 帰ってくる名前
夜明けの記録庁は、慌ただしかった。
ヴィオラさんは、第三書庫の机に、あの帳面たちを、広げていた。四十七冊。三百年分の、献星の記録。
「今から、写します」
彼女は、眼鏡を、押し上げた。目の下に、隈があった。一睡も、していないのだ。それでも、その手つきには、疲れよりも、逸る気持ちのほうが、勝っているように見えた。
「思い出された名前は、もう、消えません。でも、記憶は、時が経てば、薄れます。だから、消えないうちに、公の帳面に、書き移すんです。誰が、いつ、どこで生まれ、どこで消えたのか。……全部、正式な記録に。そうすれば、次の世代も、忘れません」
「一人で、全部を、ですか」
「まさか」
ヴィオラさんは、少し、笑った。
「ザイフェルト卿が、法務院の書記を、五人、貸してくださいました。……あの方、審問のあと、変わられたんです。『記録とは、国家が民に対して負う、最も静かな義務である』と。いつか、この街に、忘れられた人を専門に扱う役所を、作るべきだと、仰っていました」
記録庁の朝の光の中で、五人の書記が、羽根ペンを、走らせていた。
消された名前が、一つ、また一つ、紙の上に、帰ってくる。
その音を、私は、しばらく、聞いていた。羽根ペンが、紙を掻く、乾いた音。それが、誰かの生まれた朝を、誰かの消えた夕を、もう一度、この世に縫いとめていく音なのだと思うと、胸の奥が、静かに、熱くなった。
派手な歓声は、どこにも、ない。ただ、名前が、帰ってくる。それだけのことが、これほど、しずかで、これほど、大きい。
◇
私は、帳面の中に、ある一冊を、探した。
三十年前の、頁。
そこに、記されていた。
『アンネリーゼ。十五歳。星菓子を好む。歌が上手。最後の言葉——「かあさま、いってきます」』
アンネ。ハンナさんの、娘。
私は、その頁に、そっと、手を、置いた。紙は、冷たく、乾いていた。三十年、誰の指も、ここには、触れなかったのだ。
「ヴィオラさん。……お願いが、あります」
「なんでしょう」
「この方の名前を——アンネリーゼさんの名を、いちばん最初に、正式な記録に、戻してください。名誉回復の、第一号として」
ヴィオラさんが、頁を、覗き込んだ。
「この方に、ゆかりの方が?」
「塔の、料理番です。ハンナさん。……この子の、母です。三十年、間に合わなかったと、悔いてきた人。娘の好物の星菓子を、今も、焼き続けている人です」
私は、頁を、見つめた。
「王都中に自慢してやる、と、ハンナさんは、言っていました。娘の好物を。だから、その前に。まず、記録の上に、この子を、返します。それが、私たちの、本当の仕事の、はじまりだから」
ヴィオラさんは、深く、頷いた。それから、いちばん上等な、公文の帳面を、新しく、開いた。
「アンネリーゼ、さん」
ペン先を浸す前に、ヴィオラさんは、その名を、口にした。三十年、誰の口にも、上らなかった名前が、朝の空気を、静かに、震わせた。
『アンネリーゼ。名誉回復。第一号』
その一行が、書かれた。
遠い北の塔で、ハンナさんが、この報せを聞く朝を、私は、思った。竈のそばで、粉にまみれた手を、きっと止める。そして、いつもの倍の声で、泣くのだ。そして、いつもの倍、星菓子を、焼くのだ。
◇
腕輪の、六つ目の石は、まだ、暗かった。
母の、円。
私は、記録庁を出て、静修院へ、向かった。アルヴェインさまが、隣に、いた。
施設の、いちばん奥の部屋。書き損じの「エ」の紙が、何百枚も、床に散っていた、あの部屋。
母は、窓辺に、座っていた。
私が入っていくと、母は、顔を、上げた。
そして——止まった。
いつも、初めて会う人を見る目だった、母の目が。
その目の奥で、何かが、遠くから、ゆっくりと、近づいてくるのが、わかった。
「……エステル」
母の唇が、その名を、かたちづくった。
「エステル。……エス、テル。あなた。……わたくしの、娘。エステル」
母は、立ち上がった。震える手で、机の上の、一枚の紙を、取った。ゆうべ、書いたものらしかった。そこには、初めて、書き損じのない、まっすぐな字で、書かれていた。
『エステル・メルローゼ』
「毎晩、書いていました。あなたの、お名前を。……書けば、忘れずにいられる気が、して。でも、いつも、途中で、忘れてしまって。エ、で。エス、で」
母の頬を、涙が、伝った。
「今朝は、書けました。ぜんぶ。……そして、思い出しました。あなたが、生まれた朝のことも。あなたが、初めて、わたくしを、母さまと呼んだ日のことも。ぜんぶ」
私は、母を、抱きしめた。
初めて、母の腕の、あたたかさを、覚えのあるものとして、感じた。ずっと昔、この腕に抱かれていたことを、体のほうが、私より先に、思い出していた。
「ずっと」
母が、私の髪を、撫でながら、言った。
「ずっと、あなたを、探していた気が、します。名前も、顔も、忘れたまま。それでも、毎晩、誰かの名を、書かずには、いられなかった。……きっと、体の、いちばん深いところが、覚えていたのですね。わたくしには、忘れてはいけない娘が、いるのだと」
「はい、お母さま。……忘れても、いいんです。もう。だって、今度は、私が、覚えています。あなたが、私を、忘れないでいようとしてくれたことを。何百枚もの、書き損じの紙を」
腕輪の、六つ目の石が——母の石が、灯った。
消えかけて、踏みとどまり、そして、今、満ちるように、灯り直した。ひとたび暗んだぶんだけ、その光は、深く、あたたかく、手首の上で、脈を打った。
残るは、ただ一つ。
いちばん、奥の。
自分自身の、石だけ。
お読みいただきありがとうございます。
四十七の名前が、正式な記録へと帰り始めました。その第一号は、ハンナさんの娘、アンネリーゼさん。私たちの本当の仕事の、はじまりです。
そして、母が。静修院で、母は、私の名を書き切り、私を、思い出してくれました。六つ目の石が、灯り直しました。
残るは、ただ一つ。自分自身の、石だけです。
次回、第63話「三百年で、初めての、お願い」。
解呪の朝。最後の石が灯るとき——彼が、三百年で初めての、お願いを、口にします。
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蒼空ルーシェ




