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第61話 二度と、忘れられない

 私は、二人の前に、歩いていった。


 父は、夜明けの光の中で、私を、見ていた。その目が、初めて、私を、映していた。十七年、一度も、私の名を呼ばなかった人が。


「……お前」


 父の声が、掠れた。


「お前は。……私の、娘だ。エステル。私は、お前を——記録から、消させた。抹消願に、署名した。この、私が」


 父の膝が、震えていた。尊大だった背が、丸まっていた。


「なぜだ。なぜ、今になって、こんなに、はっきりと。忘れていたはずだ。忘れて、楽に、なったはずだ。それなのに、今は——お前の、幼い頃の顔まで、思い出す。庭で、転んだ日のことも。初めて、字を書いた日のことも。全部。全部が、昨日のように」


 私は、静かに、言った。


「それが、呪いの、返しなんです」


 父が、私を、見た。


「忘れ星の呪いは、反転しました。私を消そうとした人は——もう、二度と、私を、忘れられません。死ぬ日まで、毎朝、思い出します。消そうとした娘のことを。消せなかったことを」


 父は、何も、言えなかった。ただ、その場に、崩れるように、膝をついた。


 私は、それを、赦しはしなかった。手も、差し伸べなかった。


 ただ、言った。


「覚えていてください。私が、いたことを。あなたの家に、娘が、ひとり、いたことを。——それが、私からの、たった一つの、お願いです」



   ◇



 妹は、少し、離れた場所に、立っていた。


 聖女の衣は、もう、光を、まとっていなかった。ただの、白い布だった。その白の中で、ロゼリアは、幼い子のように、立ち尽くしていた。


「お姉さま」


 彼女の声は、いつもの、甘い、語尾の上がる声だった。けれど、その底が、抜けていた。


「あら。……あら、あら。おかしいわ。わたくし、光を、失くしてしまったの。みんなが、わたくしを、見ないの。誰も、拝んでくれないの。……ねえ、お姉さま。わたくし、消えてしまうの?」


 私は、妹を、見た。


 十六年間、この妹の、甘い声の裏の棘を、憎んできた。私に呪いを押し付け、善人の顔で見舞いに来た人を。


 けれど、いま、その目の奥に、私は、ずっと見えなかったものを、見た。


 空洞だった。


 選ばれなかった者の、行き場のない、空っぽ。


「ロゼリア」


 私は、フルネームを、呼ばなかった。ただ、名前を。


「あなたは、私を、忘れたかったのでは、なかったんですね」


 妹の、目が、揺れた。


「あなたが、怖かったのは、私では、ないんです。……自分が、消えるのが、怖かった。誰にも覚えられなくなる自分が。忘れられる側に、なることが。だから、忘れられる役を、私に、押し付けた」


「あら」


 ロゼリアの唇が、震えた。


「あら、あら。……お姉さま。やめて。見ないで。そんな目で、わたくしを、見ないで」


「私は、あなたを、赦しはしません」


 私の声は、静かだった。怒りは、もう、温度を、失っていた。


「けれど、分かって、しまいました。あなたの、空っぽを。……だから、これだけは、言います。あなたも、消えません。二度と、私を、忘れられないから。私を覚えている限り、あなたは、あなたを、忘れられない。——それが、あなたの、望みだったんでしょう。いちばん、残酷なかたちで、叶いました」


 ロゼリアは、答えなかった。


 ただ、白い衣の裾を、握りしめて、俯いた。その肩が、小さく、震えていた。



   ◇



 腕輪で、五つ目の石が、灯った。


 家門の円。父と、妹の、石。


 消そうとした側が、最後に、思い出す。皮肉なほど、正しい順番で、その石は、灯った。


 少し離れて、アルヴェインさまが、立っていた。帳面を、閉じて。


 彼は、崩れ落ちた父も、俯いた妹も、責めなかった。ただ、静かに、見ていた。三百年、消えていく者を看取り続けてきた男の、目で。


「復讐しなかったな」


 彼は、低く、言った。


「できた。君には、その資格が、あった。二人を、罵ることも、嗤うことも。……だが、しなかった。『覚えていてください』と、それだけ、言った」


「はい」


「それが、いちばん、重い」


 彼は、閉じた帳面を、私に、見せた。


「罵声は、忘れられる。時が経てば、薄れる。だが、覚えていてくれ、という願いは——覚えている限り、消えない。君は、あの二人に、消えない罰を、与えた。優しさという、かたちで」


 残るは、二つ。


 深い方の、いちばん奥。


 母と——自分。


 夜明けの光が、広場を、満たしていく。その光は、王都の門を越えて、街道を、北へ、南へ、東へ、西へ。王国の、隅々へと、届いていくはずだった。


 忘れられていた、すべての娘の名の上に。

お読みいただきありがとうございます。


呪いは、反転しました。私を消そうとした父と妹は、もう二度と、私を忘れられません。

消そうとした娘を、死ぬまで毎朝思い出す——それが、いちばん静かで、いちばん残酷な、返しでした。

私は復讐せず、ただ「覚えていてください」とだけ、言いました。そして妹の空洞を、理解しました。赦しはせず、けれど。


腕輪の石は、家門の円まで、灯りました。残るは、母と、自分。


次回、第62話「帰ってくる名前」。

四十七の名前が、家族のもとへ、帰り始めます。そして、母が。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

白い衣の裾を握りしめた妹の、震える肩に、☆ひとつ、お力添えを。


蒼空ルーシェ

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