↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
61/66

第60話 一斉に、思い出す

 番人が、最後の一冊を、閉じた。


「四十七人。全員だ」


 その声が消えるより早く、広場の空気が、うねった。


 思い出すことは、伝染する。ひとりが名を取り戻すと、その名を、かつて隣で呼んでいた者も、思い出す。呼ばれていた者の、家族が、思い出す。家族の、隣人が。


 波は、聖名広場から、放射状に、広がっていった。


 夜の王都の、窓という窓に、灯りがともり始めた。眠っていた家の中で、誰かが、跳ね起きたように。



   ◇



 私は、祭壇の段を、降りた。


 もう、誰も、私を、素通りしなかった。


 降りきったところで、ひとりの男に、ぶつかった。息を切らし、寝間着の上に上着を引っかけただけの、宿の主人だった。鐘つき亭の。


「あんた……あんただ」


 主人は、私の顔を、まじまじと、見た。


「うちに、泊まってた、お客さんだ。北から来た、令嬢さん。番人さまと。……なんで、だ。なんで俺は、毎朝、あんたの顔を、忘れてた。宿帳に、名前が、書いてあるのに。毎朝、初めて会う顔で、朝飯を、出してた」


 彼の目が、赤くなっていた。


「悪かった。何度も、何度も、初めましてを、言わせて。あんた、そのたびに、笑って、おはようございますって……」


「いいえ」


 私は、首を、振った。


「覚えていて、くださって、ありがとうございます。今、こうして」


 主人は、洟をすすった。それから、急に、思い出したように、言った。


「朝飯、まだだろう。帰ってきなよ。今度は——忘れないから」



   ◇



 人垣の向こうから、私の名を、呼ぶ声がした。


「エステル! エステル・メルローゼ!」


 クラリッサだった。


 舞踏会でしか会えなかった、たった一人の友人。三日前、私が名乗ることさえできずに、手紙を渡せぬまま、置いてきた人。


 彼女は、群衆を、押しのけて、走ってきた。裾も気にせず。


「あなた、あのとき、店に来たでしょう。わたしの前に、立って、『元気そうで』って、それだけ言って。……なんで、名乗ってくれなかったの。なんで、わたし、あなたを、忘れてたの。親友を。いちばんの——」


 言葉が、続かなくなった。


 私は、懐から、あの手紙を、出した。渡せずに、ずっと持っていた、封をしたままの手紙。


「これを、渡しに、来たんです。あのとき。……中身は、『わたしのことは、忘れてもいい』と、書いてあります」


 クラリッサが、手紙を、受け取った。封も切らずに、胸に、押し当てた。


「忘れて、たまるものですか」


 私の腕輪で、四つ目の石が——友人の円の石が、灯った。


 小さな、けれど、確かな、灯。



   ◇



 人が、次々と、私のもとへ、集まってきた。


 名前を取り戻した人々は、その名を最初に呼び返した者を、探した。四十七の名を読み上げた番人と、その隣に立つ、私を。


 誰かが、私の手を、握った。誰かが、泣きながら、頭を、下げた。「ありがとう」と、知らない人が、言った。三日前、私を素通りしていった、その同じ人が。


 揉みくちゃにされそうになった私の肩を、アルヴェインさまが、そっと、支えた。


「エステル。数えろ」


 彼は、いつもの、即物的な声で、言った。


「息を。四つ、吸って、四つで、吐く。……大丈夫だ。この人たちは、もう、君を、忘れない。押し寄せているのは、忘れられていた者たちの、行き場を失っていた分の、感謝だ。三百年分の。少し、多いだけだ」


「少し、ですか」


「訂正する。かなり、多い」


 私は、笑ってしまった。こんなときにも、この人は、数を、正確にしようとする。


 その正確さに、私は、いつも、救われる。



   ◇



 夜が、明けていく。


 王都の空が、藍から、灰へ、そして、薄い金へと、変わっていく中で、街は、思い出し続けていた。


 どこかの屋敷では、当主が、消したはずの姪の肖像を、屋根裏から、探していた。どこかの茶会では、貴婦人たちが、「そういえば、あの家に、姉娘がいたはずでは」と、囁き交わしていた。社交界という、あの、噂の速い水面が、いま、まったく逆向きに、流れ始めていた。


 消そうとしたものが、一斉に、戻ってくる。


 三百年、静かに汲まれてきた井戸の水が、あふれ出していた。


 私の腕輪では、外側から、三つの石が、灯っていた。遠い知人。使用人。社交界。浅い円から、順に。


 残るは、深い方の、三つ。


 家門。母。そして——自分。


 空が、白んでいく。その光の中で、私は、広場の、ある一点を、見た。


 人々が思い出していく波の、ただ中に、二つの人影が、取り残されるように、立ち尽くしていた。


 ひとつは、聖女の衣の、妹。


 もうひとつは——伯爵の、父だった。

お読みいただきありがとうございます。


思い出すことは、伝染しました。波は聖名広場から、王都中へ、王国中へ。

鐘つき亭の主人が、クラリッサが、社交界が、忘れていた私を、一斉に思い出しました。

腕輪の石は、外側から三つ、灯りました。


けれど、夜明けの広場に、二人だけ、取り残された者がいました。妹と、父です。


次回、第61話「二度と、忘れられない」。

呪いは、反転します。忘れようとした者に、いちばん残酷なかたちで。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

封を切らずに胸に当てられた手紙に、☆ひとつ、お力添えを。


蒼空ルーシェ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。