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第59話 ひびの入る氷

 声は、ひとつずつ、返っていった。


「リディア。マルゴット。エルゼ。テレジア——」


 聖名広場の中央、聖女の祭壇の前で、アルヴェインさまは、帳面を読み上げていた。ヴィオラさんが一冊を閉じ、次の一冊を、開く。三百年分の名前が、夜の広場に、ひとつずつ、置かれていった。


 初めは、誰も、聞いてなどいなかった。


 星祭りの灯りと、聖女の奇跡を待つざわめきと、香の煙。祭壇に上げられた私を「献星」として捧げる儀式の熱の中で、番人の低い声は、風のように、流れていくだけだった。


 変わったのは、二十七人目の名前だった。


「——ヨハンナ・ベルク」


 広場の隅で、初老の女が、ふと、顔を上げた。


「……ヨハンナ」


 女は、隣の男の袖を、引いた。


「ねえ、あんた。あたしに、姉さんが、いなかった? ヨハンナっていう……いた。いたはずだよ。どうして、あたし、今の今まで——」


 男が、女を見た。それから、男の顔にも、同じ、崩れるような表情が、広がった。


「……いた。ヨハンナ義姉さんだ。俺は、なんで」


 ひとつの名前が、二人の記憶に、戻った。


 たったそれだけのことが、隣へ、その隣へと、伝わっていく。番人の声が名を置くたび、広場のどこかで、誰かが顔を上げる。忘れていたことすら忘れていた娘の名を、思い出す。


「エルゼ・タンネ」


「……妹だ」


「テレジア・ヴォルフ」


「わたしの、家庭教師の……先生の、名前」


 凍りついていた水面に、ひびが、走っていくようだった。


 一筋、また一筋。


 そして、割れた。



   ◇



 祭壇の上で、ロゼリアが、動きを、止めていた。


 彼女のまとう、あの淡い光——奇跡の兆しが、揺らいでいた。灯芯の油が尽きるように、外側から、細くなっていく。


「……あら」


 ロゼリアの声が、震えた。


「あら。あら、あら。……どうして。どうして、光が」


 私には、分かった。三百年、この奇跡を燃やしてきた薪が、いま、尽きたのだと。


 聖女の奇跡は、忘れられた娘たちから吸い上げた、「存在の承認」で灯っていた。誰にも覚えられていない者の、行き場のない存在を、燃料にして。


 けれど、群衆が、思い出し始めた。ヨハンナを。エルゼを。テレジアを。四十七人の、名前を。


 思い出された者は、もう、燃料では、ない。


「消えないで。……お願い、消えないで。わたくしの、光」


 ロゼリアが、両手で、宙をかき集めようとした。届かなかった。彼女の指の間から、最後の燐光が、ほどけて、散った。


 三百年、一度も途切れなかった奇跡が——完全に、止まった。


 群衆の、質が、変わった。


 これまで、聖女の光を、拝んできた人々だった。奇跡を、信じてきた人々。けれど、いま、彼らの手の中に、戻ってきたのは、失われていた家族の名前だった。


「……この光は」


 誰かが、呟いた。


「この、聖女の光は。俺たちの、忘れた娘たちを、燃やして、灯ってたのか。ヨハンナを。あの子たちを。……俺たちが拝んでいたのは、消された名前の、焼け跡だったのか」


 ざわめきが、怒りに、変わり始めた。奇跡の嘘が、剥がれていく。三百年、誰も疑わなかった聖女の光の、本当の値段が、今、群衆の胸に、突きつけられていた。



   ◇



 祭壇の縁で、私は、自分の腕輪を、見た。


 七つの石。そのうち六つは、とうに、黒い。


 けれど。


 一番外側の、一番浅い円の石が——ずっと死んでいたはずの、遠い知人の石が。


 かすかに、あたたかい。


 消えかけた炭を、そっと吹き返したような、ごく弱い、光。


「アルヴェインさま」


 私は、呼んだ。番人が、帳面から、目を上げる。


「石が……戻って、います」


 彼は、私の腕輪を、見た。それから、割れていく広場の氷を、見渡した。


「四十七人目まで、あと、六つだ」


 彼は、次の頁を、開いた。


「読み終える頃には、この街の、全員が、思い出している。——君のことも、含めてだ」


 私は、祭壇の段に、腰を、下ろした。もう、立っていられなかった。膝が、震えていた。恐怖からではなかった。三百年、この広場で、静かに消えていった娘たちが、いま、初めて、誰かに名を呼ばれて、帰ってくる——その音を、聞いているせいだった。


「リディア。マルゴット。エルゼ。テレジア。ヨハンナ。アンネリーゼ——」


 番人の声は、途切れなかった。一人も、飛ばさなかった。三百年、たった一人で覚え続けてきた男が、その全部を、いま、王国で一番、人の集まる場所で、読み上げていた。


 群衆の、ざわめきの質が、変わっていた。奇跡を待つ声ではなかった。名前を、取り戻した声。取り戻したことに、震える声。


 その中心で、ロゼリアだけが、まだ、動けずにいた。


 崩れていく、足元の上で。

お読みいただきありがとうございます。


聖名広場で、番人が読み上げた四十七の名前が、群衆の記憶に、ひとつずつ、戻り始めました。

忘れられていた娘たちの名が、王都中へ。奇跡の嘘は露呈し、ロゼリアの奇跡は、完全に止まりました。


腕輪の一番外側の石が、かすかに、あたたかくなりました。


次回、第60話「一斉に、思い出す」。

王国が、思い出します。忘れていた娘たちを——そして、私の、名前を。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

ひびの入った、忘却の氷に、☆ひとつ、お力添えを。


蒼空ルーシェ

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