第58話 名前を、返す
「そして、四十八人目は——」
番人の声が、止まった。ほんの、一拍。
凍えた夜気の中で、幾千の蝋燭が、揺れていた。誰も、その一拍の意味を、まだ、知らない。ただ、番人の背だけが、篝火を背に、動かずに、立っていた。
三百年、看取り続けた男が、その名を、読むために、息を、吸った。
その、息を吸う音が、私には、聞こえた気がした。広場じゅうの喧噪の底で、たった一人分の、静かな呼吸が。
「エステル・メルローゼ。北の、星灰の塔の、記録係。十七歳。菫の、花が、好き。……三百年で、四十八人目の、献星。だが」
番人の声が、強くなった。
「だが、この娘は、消えない。私が、覚えている。ここに、いる者、全員が——これから、覚える」
ヴィオラさんが、複写の束を、高く、掲げた。
「王宮記録庁、第三書庫、書記官、ヴィオラ・カッセル! これは、私文書では、ありません! 三百年分の、公の、記録です! 焼いても、消えません! 写しは、幾つも、あります!」
私は、胸に、抱いたものを、握りしめた。
母の、「エ」の、紙束。何百枚もの、忘れまいとした、跡。その、いちばん上の、一枚には、昨夜、書かれた、四文字が、あった。『エステル』と。
指の腹に、紙の、こわばりが、伝わった。何度も、書いては、忘れ、また書いた、母の、震える筆の、跡だった。
そして、もう一方の手に、テオの、お守り。「とおくに行くときも、かしてあげる」と、あの子が、貸してくれた、小さな、真鍮の、星。
握りしめているうちに、冷たかった真鍮が、私の手の熱を、吸って、ぬるくなっていた。塔の、五つ目の灯りの色を、思い出した。
記録庁の、複写。母の、紙。テオの、お守り。番人の、台帳。……三百年分の、「覚えている」が、この、広場に、集まっていた。一点に、集まって、いた。
番人が、もう一度、名を、読んだ。
「エステル。……この娘の、名だ。覚えてくれ。一度でいい。今夜、一度だけでいい。——『いた』と、認めてくれ」
広場が、静まり返った。
誰も、答えなかった。素通りの目が、素通りのまま、番人を、見ていた。三百年、そうしてきたように。この静けさこそが、忘却の、氷の、厚さだった。
と。
群衆の中の、一人が、呟いた。年老いた、女だった。手の、蝋燭を、揺らして。
「……エステル。その名前、あたし、聞いたことが、ある気が……」
隣の、男が、眉を、寄せた。
「エステル……確か、伯爵家の、上のお嬢さんが、そんな……いや、上のお嬢さんは、いなかったか? ……いや、いた、ような」
「メルローゼの、姉君だよ。ほら、去年の、春の、舞踏会で……あら、わたし、なぜ、忘れて……」
ひび、だった。
三百年、誰も、割れなかった、忘却の、氷に。細い、けれど、確かな、ひびが、一本、走った。
一人が、思い出す。すると、その隣が、「そう言えば」と、思い出す。記憶が、蝋燭の火のように、隣へ、隣へ、移っていく。
「エステル……。エステルさま……」
誰かが、はっきりと、その名を、呼んだ。
その瞬間。
私の、腕輪の、七つ目の石が。
消えかけた、その火が——ふっ、と、息を、吹き返した。
胸の、いちばん奥の、冷え切っていた場所に、小さな、熱が、戻った。忘れられて、薄れていく一方だった、私という、輪郭を、外側から、そっと、なぞり返されるようだった。
消えなかった。まだ、弱い。けれど、確かに、灯った。誰かが、「いる」と、認めるたびに、少しずつ。
私は、自分の、手を、見た。
群衆の、幾人かが、こちらを、見ていた。今まで、素通りしていた目が、確かに、私を、捉えていた。
見えて、いる。
涙が、こぼれた。
◇
祭壇の上で、ロゼリアが、後ずさった。
「やめて。……やめて、ください。その名前を、呼ばないで」
甘い声は、もう、どこにも、なかった。震える、細い、少女の声だけが、あった。
「思い出したら……わたくしの、光が……わたくしが、消えて、しまう……」
群衆は、もう、聖女を、見ていなかった。人々は、思い出そうと、していた。忘れていた、名前を。忘れていた、娘を。一人、また一人。
私は、番人の、いる方を、見た。
人垣の向こうの、番人は、まだ、台帳を、抱えて、立っていた。彼と、目が、合った。彼は、頷いた。ただ、一度。「間に合った」と、言うように。
その頷きの中に、三百年分の、疲れと、それを上回る、静かな、何かが、あった。ただ一人で、名を、呼び続けてきた男の目が、今夜、初めて、ほどけていくのを、私は、見ていた。
まだ、解けては、いない。呪いは、まだ、そこに、ある。妹の奇跡も、完全には、止まっていない。母の石も、私の石も、弱いまま。
けれど。
氷に、ひびが、入った。
三百年、誰も、割れなかった、氷に。
名前を、返す。それが、番人の、仕事だった。三百年、ただ一人で、続けてきた、仕事。今夜、その仕事に、王都じゅうの、幾千の人が、加わろうと、していた。一人が、思い出し、その隣が、思い出す。想起は、火のように、広場から、街へ、広がろうと、していた。
私は、母の紙束を、テオのお守りを、胸に、抱いた。
そして、自分の、名前を、小さく、呟いた。霧の、晴れ始めた、頭の中で、確かめるように。
「私は、エステル。……覚えて、います。私も、私を、覚えて、います」
——消えた星の光は、それでも、届いています。
忘れられかけた、私の名の上にも。
お読みいただきありがとうございます。
四十八人目の名が、夜に、放たれました。
「エステル・メルローゼ。この娘は、消えない。私が、覚えている」
記録庁の複写、母の「エ」の紙、テオのお守り——すべての「覚えている」が、聖名広場に、集まりました。
群衆の一人が、呟きます。「その名前、聞いたことが……」
三百年、誰も割れなかった忘却の氷に、細いひびが、一本。
想起の連鎖は、まだ、始まったばかり。呪いは、これから、解けていきます。
次回、第59話「ひびの入る氷」。
思い出された名が、王都じゅうへ、広がり始めます。
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蒼空ルーシェ




