第57話 星祭りの夜
星祭りの、夜が、来た。
聖名広場は、光の、海だった。
石畳の、隅から隅まで、蝋燭が、灯されていた。何千という、小さな炎。消えた星に、祈るための、火。人々は、手に手に、蝋燭を、掲げ、祭壇を、見上げていた。
蜜蝋と、焼けた砂糖の、甘い匂いが、夜気に、溶けていた。どこかで、笛が、鳴っている。子どもの、はしゃぐ声。誰かが、誰かの名を、呼び、その誰かが、笑って、振り返る。
祭りの夜の、ぬくもりが、広場じゅうに、満ちていた。
その、まん中で。私の、指先だけが、冷たかった。
祭壇の上に、聖女ロゼリアが、立っていた。白い祭服。星をかたどった、銀の冠。群衆の、すべての目が、妹に、注がれていた。
私は、群衆の中を、進んだ。
祭壇の、いちばん近くの、席へ。妹が、用意した、席へ。
誰も、私を、見なかった。
肩が、触れても。足を、踏んでも。人々は、振り向かなかった。「すみません」の一言も、なかった。まるで、そこに、誰も、いないかのように。
あたたかい、体の、群れだった。笑い、歌い、祈る、その熱の、ただ中を、私は、冷たいまま、通り抜けていく。すぐ、隣に、幾百の、ぬくもりが、あって。その、どれ一つも、私には、届かなかった。
見えて、いない。
私は、悟った。群衆の、誰の目にも、私は、映っていない。石が、消えかけている。自分の、石が。人に「いる」と認められる、その最後の力が、尽きかけている。
腕輪の、七つ目の石を、見た。
明滅は、もう、明滅ですら、なかった。ほとんど、消えている。ごく、たまに、思い出したように、弱く、灯る。それも、次第に、間遠に、なっていく。
手首が、冷たかった。石の、あるあたりだけ、氷を、当てられたようだった。かつては、そこに、確かな、熱が、あった。今は、灯る、その一瞬だけ、かすかに、ぬるむ。そして、すぐ、また、冷えていく。
私は、隣に立つ人の、肩に、そっと、触れてみた。
「あの。……すみません」
声は、届かなかった。その人は、私の手を、素通りさせて、祭壇の方へ、歩いていった。まるで、風が、吹き抜けただけの、ように。
私は、懐の、ものを、握った。母の、「エ」の紙束と、テオの、お守り。この二つが、私が、確かに、誰かに、覚えられていた、証だった。
なのに、その私の輪郭さえ、指の間から、砂のように、こぼれていく。名前が、思い出せない。今、自分が、なぜ、この広場に、いるのかも。ただ、握った紙束の、冷たさだけが、現実だった。
◇
祭壇の上で、ロゼリアが、両手を、上げた。
「消えた星々に、捧げます」
甘い声が、広場に、響いた。
「今宵、わたくしたちは、一つの、古きものを、星に、お返しします。名も、なき。……もう、誰も、覚えていない、一つの、影を」
群衆が、どよめいた。何のことか、分からぬまま、聖女の言葉に、酔って。
私には、分かった。「名もなき影」とは、私の、ことだ。妹は、群衆の前で、堂々と、姉を、消そうと、している。誰にも、気づかれずに。消える者を、誰も、覚えていないのだから、誰も、消えたことに、気づかない。完全な、儀式。
妹の目が、一瞬、私を、捉えた。
その目の、奥に、やはり、あの、空っぽの、恐れが、あった。姉を消さねば、自分が消える、と、信じている者の、恐れ。妹は、微笑みながら、震えていた。
教会の者が、二人、私の、両脇に、立った。祭壇の前へと、促す。逃げ場は、なかった。
支えられて、私の足は、祭壇へと、進んだ。自分の、意思では、なかった。導かれるまま、一歩、また一歩。
石畳の、冷たさが、薄い靴底を、透して、上ってきた。膝から、腰へ。背筋を、伝って。体の、芯まで、祭壇の、冷えが、満ちていく。
私は、自分の、名前を、思い出そうとした。
私は……。
霧が、濃い。名前が、遠い。好きな花も、母の顔も、番人の、声も。すべてが、白い霧の、向こうに。
私は、誰、だった。
七つ目の石が、消える。あと、ひと、瞬き。
◇
そのとき。
広場の、隅から。祭りの喧騒を、貫いて。
低い、けれど、はっきりとした、声が、聞こえた。数を数えるように、正確な、声が。
祭りの、どの笛より、どの歓声より、低いのに。その声だけが、まっすぐ、私の、耳に、届いた。冷えきった、体の、いちばん奥へ。
「リディア・フェルン。百二十二年前の、献星。野の花を、好んだ。最後の言葉は、『あたたかい』」
私は、顔を、上げた。
群衆の、いちばん後ろ。人垣の、向こうに。番人が、立っていた。台帳を、抱えて。その隣に、ヴィオラさんが、複写の束を、掲げて。
「マルゴット・シェイ。九十八年前の、献星。歌が、上手かった。……エルゼ。テレジア。アンネリーゼ——ハンナの、娘」
一つ、また一つ。番人が、名前を、読み上げていく。三百年、誰にも読まれなかった、名前を。王都で、いちばん、声の届く、広場で。
群衆が、ざわめき始めた。祭りの空気に、ひびが、入った。
「四十七人。三百年で、四十七人。全員、ここに、いた。全員、名前が、あった」
番人の声が、夜を、渡った。
「そして、四十八人目は——」
群衆の、すべての顔が、声の方へ、振り向いた。何千の、蝋燭の炎が、揺れた。
祭壇の上で、ロゼリアの、笑みが、凍った。
「あら……」
消えかけた、七つ目の石の中で、私は、思った。
あの人は、来てくれた。数えながら、来てくれた。
私は、消えかけた石の、最後の灯りの中で、その名が、読まれるのを、待った。
自分の、名前が。
お読みいただきありがとうございます。
星祭りの夜。聖名広場は、光の海でした。
けれど、群衆の誰も、エステルを、見ません。七つ目の石は、消える寸前。
妹は、姉を、名もなき影として、星に「お返し」しようとします。
——その儀式の只中へ。広場の隅から、番人の声が、四十七の名前を、読み上げ始めました。
次回、第58話「名前を、返す」。
四十八人目の名が、夜に、放たれます。
ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。
広場に灯る、幾千の蝋燭に、☆ひとつ、お力添えを。
蒼空ルーシェ




