第56話 母の石
星祭りの、前夜だった。
鐘つき亭の、狭い部屋で、私は、腕輪を、見つめていた。
窓の外は、しんと、冷えていた。祭りを待つ王都の灯りが、遠く、にじんでいる。それも、今は、目に入らなかった。
六つ目の石。母の、石。
それが、消えかけていた。
七つ目の、自分の石が、明滅を続ける、その隣で、六つ目は、もっと、静かに、弱っていた。もう、明滅ですら、ない。ただ、火が、細く、細くなって、今にも、途切れそうな、灯芯のように。
掌に、載せて、息を、かけてみた。温めれば、灯りが、戻る気が、して。けれど、石は、私の体温を、少しも、吸わなかった。ただ、冷たく、遠かった。
この石が、消えれば。母の中から、私は、最後の一欠片まで、消える。「いた」ということさえ、母は、忘れる。
私は、母の書いた、「エ」の紙束を、膝に、抱えた。何百枚もの、書き損じ。「エ」で、途切れた字。「エス」で、力尽きた字。母が、忘却に、抗った、夜ごとの、跡。
指先で、その一枚を、なぞった。震えた線だった。書こうとして、届かなかった、指の、震えが、そのまま、紙に、残っていた。
「お母さま」
私は、小さく、呼んだ。
「もう、いいのです。無理を、なさらないで。……忘れて、くださって、いいのです。あなたが、苦しむくらいなら」
言葉が、喉で、つかえた。本当は、忘れないでほしい。誰よりも。——けれど、それを、母に、背負わせたくは、なかった。
石の火が、ふっと、細くなった。消える、と思った。
私は、目を、閉じた。
◇
同じ夜。王都の外れの、静修院。
小さな、寝台と、机だけの、部屋だった。窓には、格子。ユリアーナ・メルローゼは、その机に、向かっていた。
夜ごとの、日課だった。
誰かの、名前を、書く。それが、誰の名前なのか、彼女には、もう、分からない。ただ、書かねばならない、と、胸の奥が、疼く。書かないと、大切な何かが、こぼれ落ちてしまう気が、する。
ペンを、執る。震える手で。指の節が、白くなるほど、握っても、ペン先は、紙の上で、頼りなく、揺れた。
「エ……」
一文字。そこで、いつも、止まる。二文字目が、霧に、なる。誰の、名前だったか。何を、書こうとしたのか。——毎晩、そこで、途切れる。机の下の籠は、「エ」で終わった紙で、いっぱいだ。
けれど、今夜は。
なぜか、一人の娘の、顔が、浮かんだ。先日、面会に来た、娘。「初めまして」と、名乗った、娘。菫の色の、目をした。……名は、なんと、言ったか。確か、この手で、書き取った。あのとき、確かに。
書いたとき、胸の、ここが、温かくなった。その温もりだけが、名前の抜けた場所に、ぽつりと、残っていた。
ユリアーナは、目を、閉じた。娘の声を、思い出そうと、した。忘却の霧の、いちばん、深いところに、手を、伸ばした。指の先が、霧に、触れる。冷たい。けれど、その奥に、確かに、何かが、ある。
「あなたの、お名前は?」と、わたくしは、訊いた。娘は、答えた。
——エステル、です。
その声が、霧を、破って、届いた。
彼女の、手が、動いた。
「エ」
いつもの、一文字。けれど、今夜は、止まらなかった。
ペン先が、二文字目へ、進む。霧が、また、立ちこめようとする。負けそうに、なる。息を、詰めて、手だけを、信じた。
「エ、ス」
二文字目を、越えた。いつも、霧になる、あの一画を。今夜、初めて。
「エ、ス、テ」
涙が、頬を、伝った。なぜ、泣くのか、分からないまま。手だけが、覚えているように、動いた。もう、頭では、何も、思い出せない。それでも、指は、この名を、知っていた。
「エ、ス、テ、ル」
書けた。
四文字、全部。娘の、名前。
『エステル』
ユリアーナは、その紙を、両手で、持った。誰の名かは、思い出せない。それでも、この名が、世界でいちばん、大切なものだ、ということだけは、分かった。持つ手が、まだ、震えていた。
「……エステル」
声に、出して、読んだ。名を、呼ぶと、また、胸の、ここが、温かくなった。
三百年の呪いが、その一瞬だけ、母の情に、負けた。
◇
鐘つき亭の部屋で、私は、目を、開けた。
消えかけていた、六つ目の石が——
灯って、いた。
細く、けれど、確かに。消える寸前で、踏みとどまった、灯りが。まるで、誰かが、今、遠くで、両手で、囲って、風から、守ったように。
私は、息を、呑んだ。腕輪を、握る指が、ひとりでに、震えた。
「お母さま……?」
石は、消えなかった。弱いまま。けれど、消えなかった。
どうして、と、問うことは、できなかった。ただ、分かった。
母が、今夜、勝ったのだ。忘却に。ほんの、一瞬。……名前を、書き切ったのだ。私の、名前を。
刻限は、押し返せない、と、思っていた。石は、消える一方だと。消えたものは、二度と、戻らないと。なのに、たった今、六つ目の石は、消えるのを、やめた。灯芯が、最後の一息で、また、火を、抱き直すように。
押し返したのは、力では、なかった。祈りでも、奇跡でも、なかった。——母の、情だった。娘を、忘れまいとする、たった一人の、母の。
私は、「エ」の紙束を、抱きしめた。その束の、いちばん上に、明日、もう一枚が、加わることを、まだ、知らずに。
◇
窓の外で、王都の空が、白み始めていた。
星祭りは、今日の、夜。
私は、六つ目の、消えなかった石を、見つめた。それから、七つ目の、明滅する石を。
「大丈夫」
自分に、言い聞かせるように、言った。
「私は、まだ、消えていません。母が、覚えていて、くれました。……なら、私も、諦めません」
お読みいただきありがとうございます。
消えかけた、六つ目の石。母の石。
静修院で、ユリアーナが、娘の名を——「エステル」と、四文字、書き切りました。
三百年の呪いが、一瞬だけ、母の情に、負けた夜。
石は、消えるのを、やめ、踏みとどまりました。
そして、明ければ、星祭りの夜。
次回、第57話「星祭りの夜」。
聖名広場で、最後の儀式が、始まります。
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蒼空ルーシェ




