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第55話 三百年、忘れなかった男

 夜の、書庫だった。


 アルヴェインは、眠らない。


 三百年、ほとんど、眠っていない。眠ると、忘れるからでは、ない。忘れないから、眠っても、無駄なのだ。夢さえ、覚えていることの、繰り返しに、なる。


 卓の上に、蝋燭が、一本。その灯りで、彼は、台帳を、繰っていた。


 王都に運んできた、何十冊の、うちの、一冊。三百年分の、献星の、記録。


 リディア。三代前の、献星。薔薇より、野の花を、好んだ。最後に、水を、一口。「あたたかい」と、言って、消えた。百二十二年前。冬の、三日目。


 マルゴット。歌が、上手かった。忘れられていく最中も、鼻歌を、やめなかった。最後の歌の、三小節目で、声が、消えた。


 エルゼ。テレジア。……アンネ。


 アンネ。三十年前。星のかたちの菓子が、好きだった。母の名を、最後まで、呼んでいた。「かあさま」と。……その母は、今、塔で、菓子を、焼いている。娘の好物を、焼き続けている。ハンナ、という。


 アルヴェインは、全員を、覚えている。


 四十七人。三百年で、四十七人。名も、顔も、声も、最後の言葉も。昨日のことのように、覚えている。——それが、忘れないということの、正体だった。喪失が、一度も、薄れない。四十七回の別れが、四十七回とも、昨日のまま、胸に、ある。


 人は、忘れることで、傷を、癒す。彼には、それが、できない。


 いつだったか、一人の娘が、消えていく間際に、言った。


「番人さま。あなたも、忘れて、しまえば、楽なのに」


 アルヴェインは、答えなかった。答えの代わりに、その娘の、好きだった菓子の名を、覚えた。歌の癖を、覚えた。最後の、寝息の、間合いまで、覚えた。


 忘れた方が、楽だ。三百年で、そう言った者は、百四十二人、いた。全員、間違っている、と、彼は、思う。忘れて、楽になるのは、忘れる側だけだ。忘れられる側は、二度、消える。一度は、この世から。もう一度は、誰かの、記憶から。……その、二度目を、防ぐのが、番人の、仕事だった。だから、彼は、忘れない。楽に、ならないことを、三百年、選び続けている。



   ◇



 なぜ、自分が、こうなったのか。


 問われることは、あった。エステルにも、モリスにも、歴代の、娘たちにも。そのたび、アルヴェインは、同じことを、答えた。


「それを話すには、三百年かかる」


 嘘では、ない。本当に、三百年、かかる。始まりの夜のことを、話し始めれば、あの署名のことも、あの人の、最後の言葉のことも、話さねばならない。——それは、まだ、話せない。話す日が、来るとしても、今では、ない。


 だから、彼は、いつも、そこで、口を、閉じた。


 三百年、覚える側だった。


 覚えて、記録して、看取って、また、覚える。それが、務めだった。誰かに、覚えていてほしい、と、思ったことは、一度も、なかった。自分は、覚える器で、あればいい。器が、中身を、欲しがっては、いけない。


 なのに。


 アルヴェインは、蝋燭の、炎を、見た。


 あの娘が——エステルが、自分自身を、忘れ始めている。好きな花を。声を。いつか、この、私のことも、忘れるかも、しれない。


 そう思ったとき、胸に、初めての、感覚が、生まれた。


 覚えていて、ほしい。


 三百年で、初めての、願いだった。自分のことを、誰かに、覚えていて、ほしい。エステルに、覚えていて、ほしい。——器が、初めて、中身を、欲しがった。


 アルヴェインは、その願いを、口には、しなかった。


 言葉は、得意ではない。三百年、慰めの言葉も、睦言も、身につかなかった。彼に、言えるのは、日付と、数と、事実だけだ。


 代わりに、台帳の、隅に、日付を、書いた。番人歴、三百年と、それから、幾日。


『この日、初めて、覚えていてほしいと、思った』


 書いて、しばらく、その一行を、見つめた。それから、静かに、頁を、閉じた。



   ◇



 窓の外は、まだ、暗い。


 夜が明ければ、星祭りの、前夜だ。明けて、次の夜が、祭り。あの娘を、消そうとする、夜。


 アルヴェインは、立ち上がった。


 やるべきことは、決まっていた。饒舌な、慰めの言葉は、持っていない。彼に、できるのは、二つだけだ。


 覚えること。そして、そのために、動くこと。


 彼は、台帳を、抱えた。四十七人の、名前を、抱えた。そして、『エステルの、こと』と書かれた、一冊も。


 星祭りの、夜。あの広場で、これを、読む。三百年、誰にも読まれなかった名前を、王都で、いちばん、声の届く、場所で。


 間に合わせる。


 番人は、蝋燭を、消した。夜明けまで、あと、二刻と、少し。彼は、その時間さえ、正確に、知っていた。

お読みいただきありがとうございます。


三百年、忘れなかった男の、夜でした。

四十七人の娘たちを、昨日のように覚えている、痛み。

なぜ番人になったのか——それは、まだ、話せません。(「それを話すには、三百年かかる」)

ただ一つ、初めて生まれた願いだけを、番人は、日付とともに、書き留めました。


次回、第56話「母の石」。

消えかけた、六つ目の石に、小さな奇跡が。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

誰にも読まれなかった、四十七の名前に、☆ひとつ、お力添えを。


蒼空ルーシェ

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