第54話 消えていく私
朝、目が覚めて、私は、天井を、見つめた。
何か、思い出そうとして、思い出せない、感覚が、あった。
私の、好きな、花。
浮かばなかった。
昨日、妹に、はっきりと、言ったはずだった。薔薇では、ない、と。菫だ、と。八つの年の、春に——その、先が、霧の中に、あった。花の色も、匂いも、名前さえ。
指先で、寝台の敷布に、その花びらの形を、なぞろうとした。丸いのか、尖っているのか。何枚、あったのか。指は、白い布の上を、あてもなく、滑っただけだった。
声に、出してみた。
「……おはよう、ございます」
自分の声が、自分の声に、聞こえなかった。知らない誰かが、私の口を、借りて、喋っているようだった。
喉に、手を、当てた。確かに、私の喉が、震えている。なのに、そこから漏れた音を、私は、知らなかった。
鏡台の、鏡を、見た。映っている顔が、どんな風に笑うのか、思い出せなかった。試しに、口の端を、上げてみた。鏡の中の誰かが、ぎこちなく、同じように、した。私の顔のはずなのに、真似を、されているようだった。
腕輪を、見た。
七つ目の石。ずっと、静かに、灯っていた、いちばん内側の石。自分自身の、石。
それが——明滅していた。
点いて、消えて、点いて。心もとない、瞬きで。
◇
「アルヴェインさま」
記録庁の、書庫の隅で、私は、言った。声が、少し、掠れた。……いえ、掠れたのでは、ない。自分の声が、遠いのだ。
「私、自分の、好きな花を、忘れました。今朝。……昨日は、覚えていたのに」
アルヴェインさまが、頁をめくる手を、止めた。
「七つ目か」
「はい。明滅を、始めました」
私は、微笑もうとして、うまく、できなかった。
人に忘れられるのは、外側から、欠けていくことだった。誰かの中の、私が、消える。それは、寂しいけれど、まだ、私は、ここに、いた。……けれど、これは、内側からだ。私の中の、私が、減っていく。誰にも、灯し直して、もらえない場所で。
「変ですね。人に忘れられるのは、もう、慣れたと、思っていました。母に、友に、父に。……でも、これは、違う。自分で、自分が、分からなくなる。好きな花も、声も、どんな顔で笑うのかも。——いちばん、怖い」
アルヴェインさまは、ペンを、置いた。
そして、めずらしく、まっすぐに、私を、見た。
「エステル。私を、見ろ」
「……はい」
「君の好きな花は、菫だ。西の温室で、八つの春に、決めた。薔薇ではない。君は、そう言った」
「どうして、それを」
「以前、私が、訊いた。好きな花を。……塔の、二つ目の石が消えた夜だった。君は、少し、笑って、『菫です』と、答えた。私は、書き留めた。台帳の、君の頁に」
三百年前から、忘れたことのない男が、私の、一年前の言葉を、覚えていた。
「君が、忘れても」
アルヴェインさまの声は、低く、静かだった。饒舌でも、なかった。ただ、事実を、述べる声だった。
「君の全部を、私が、覚えている。だから君は、忘れても、消えない」
「……」
「好きな花。声の高さ。笑うとき、右の頬が、先に上がること。怒ると、敬語のまま、声が、半音、下がること。……全部、覚えている。三百年、忘れたことのない男が、覚えている。だから——君は、忘れても、消えない」
私は、俯いた。膝の上で、両手を、握った。
握った手は、温かかった。まだ、ここに、ある。指の、一本ずつを、確かめるように、握り直した。
消えても、いい、と、一瞬、思った。この人が、覚えていて、くれるなら。
けれど、すぐに、打ち消した。それでは、駄目だ。覚えて、もらうだけでは、駄目だ。私も、私を、覚えていなければ。
◇
その日、私たちは、一日をかけて、一冊の帳面を、作った。
私の、頁だった。
最初の一行は、私が、書いた。
ペンを、握る指が、少し、震えた。冷たいインクが、白い頁に、下りていく。『エステル』。自分の名を、自分の手で、書くのは——ずいぶん、久しぶりの、気がした。書いて、しまえば、それは、もう、霧には、攫われない。
「私は、エステル。十七歳。菫が、好き。……甘いお茶より、渋いお茶が、好き。朝は、少し、寝坊。テオの、笑い方が、好き。ハンナさんの星菓子の、焦げた端が、好き」
言うそばから、アルヴェインさまが、書いた。ヴィオラさんも、隣で、写しを、取った。
「怒ると、どうなる?」
「……敬語のまま、冷たく、なります」
「そうだ。書いておく。——『怒ると、敬語のまま、温度が下がる。これは、弱さではない。強さである』と」
私は、笑った。少し、涙ぐみながら。
「アルヴェインさま。それは、事実ですか」
「事実だ。私は、事実しか、書かない」
ヴィオラさんが、鼻を、すすった。それから、慌てて、眼鏡を、直した。
「私も、写しを、記録庁に、一部、納めます。……公の、記録に。誰かに焼かれても、消えないように」
窓の外の空に、薄い月が、出ていた。
腕輪の、七つ目の石は、まだ、明滅していた。けれど、点いて、消えて、また、点いた。消えるたび、誰かが、すぐに、灯し直すように。
「星祭りまで、あと三日だ」
アルヴェインさまが、帳面を、閉じた。表紙に、きちんとした字で、書いてあった。
『エステルの、こと』
「この帳面は、私が、持つ。何があっても、離さない。……君が、君を忘れても。ここに、君が、いる」
私は、その表紙に、そっと、手を、置いた。
掌の下で、頁の厚みが、わずかに、盛り上がっていた。今日、書いた分だけ、私が、厚く、なっていた。
冷たい、革の表紙。けれど、その下に、私が、いる。忘れられても、消えない、私が。
お読みいただきありがとうございます。
七つ目の石が、明滅を、始めました。
エステルが、自分自身を——好きな花を、自分の声を、忘れ始めます。
「君の全部を、私が覚えている。だから君は、忘れても、消えない」
番人は、彼女のための一冊を、作りました。表紙には、『エステルの、こと』。
次回、第55話「三百年、忘れなかった男」。
覚え続けることの、重みを。
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蒼空ルーシェ




