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第52話 聖女の焦り

 朝の祈りの刻だった。


 大聖堂の身廊に、信者たちが、膝を折って、並んでいる。祭壇の前で、聖女ロゼリアは、両手を、天へ、上げた。


 いつもなら、指の先から、光が、こぼれる。柔らかい、白い光。病んだ者の額に触れれば、熱が引き、痛みが遠のく、あの光。


 けれど、今朝は。


 手のひらは、冷たいまま。指先に、なんの熱も、灯らない。


「聖女さま……?」


 最前列の、老いた信者が、顔を、上げた。その目に、ほんの少し、戸惑いがある。半年前には、無かったものだ。


 ロゼリアは、微笑んだ。いつもの、蜜のような笑みを、貼りつけて。


「あら。……今朝は、星の巡りが、少し、遠いようですわ。神さまも、たまには、朝寝坊を、なさるの」


 小さな笑いが、身廊を、撫でた。信者たちは、また、頭を垂れる。けれど、その下げ方が、以前より、浅い。ほんの、指一本ぶん、浅い。


 ロゼリアには、それが、見えた。見えて、しまった。



   ◇



 祭服を脱ぐあいだ、ロゼリアは、鏡を、見なかった。


 鏡の中の自分が、以前ほど、輝いていないことを、確かめたくなかった。


「奇跡が、弱っておいでですな」


 背後で、声がした。副司教ロタール。ガリウス大司教が破門されてからというもの、この男は、影のように、聖女の傍に、控えている。


「あら、あらあら。弱ってなど、いませんわ。少し、疲れているだけ」


「審問の一件が、効いております」


 ロタールは、抑揚のない声で、続けた。


「大司教さまが、破れました。三百年、伏せてきた献星の仕組みが、王都じゅうの噂に、なっております。……信じる者が、揺らげば、聖女さまの光も、揺らぐ。人が『聖女さまは本物だ』と認める、その心が、あなたを聖女に、しているのですから」


「……」


「もう一つ。あの娘です」


 ロタールの目が、細くなった。


「北の塔の、献星。エステルと、名乗る娘。あれが、名を記録され、人に覚えられるたび、聖女さまの燃料は、細ります。奇跡の光は、あの娘から吸い上げた『いる、と認められる力』で、燃えている。娘が、忘れられるほど、あなたは、輝いた。……逆も、また、真」


 ロゼリアは、櫛を、握りしめた。


「二重に、細っている、と仰るの。信者の心と、あの娘の、両方から」


「左様で」


 ロゼリアは、窓辺に、寄った。


 聖名広場が、見下ろせる。三百年、聖女の奇跡を披露してきた、あの石畳。今は、まばらな人影が、行き交うだけ。


 わたくしの光が、消えたら。


 考えかけて、止めた。その先を、考えるのが、怖かった。


 光を失った聖女は、ただの、十六の娘だ。誰にも、選ばれなかった娘。誰の記憶にも、留まらない娘。——空っぽの、娘。


 ロゼリアは、幼い日を、思い出した。


 姉のエステルは、いつも、覚えていた。使用人の名も、庭師の薔薇の種類も、料理番の好物も。屋敷じゅうの人間が、姉に、微笑みかけた。ロゼリアの名を、姉の、ついでに、呼んだ。


 いつも、姉の、次だった。姉の、おまけだった。


 だから、聖女に、選ばれたとき——ロゼリアは、初めて、自分が、真ん中に、立った気がした。皆が、わたくしを、見る。わたくしの名を、呼ぶ。わたくしを、覚えている。


 その光が、消える。


 いや。いやですわ。……もう、あちら側には、戻らない。


「ロタール」


「はい」


「奇跡を、取り戻す方法は、あって?」


 ロタールは、静かに、答えた。


「献星が、半端なのです。あの娘は、名を残し、記録を残し、覚えられている。……完全な、献星に、戻せばよい。誰の記憶にも、どの紙にも、残らぬように。存在ごと、捧げきる。さすれば、燃料は、満ちましょう」


「……完全に」


「近ごろ、聖名広場で、大きな祭祀が、ございます。その夜なら、人が集まり、灯りに紛れて、儀式を、執り行える」


 ロゼリアは、目を、閉じた。


 姉の顔が、浮かぶ。北の塔で、テオという子どもを庇って、こちらを、静かに、見返した、あの目。「あなたの奇跡の値段を、知っています」と言った、あの声。


 憎い、と思う。心の底から。


 なのに、その憎しみの奥に、いつも、細い隙間風が、吹いている。姉が、羨ましい。姉のように、誰かに、覚えられたい。——その願いが、叶わないから、姉を、消したい。


 ロゼリアは、それを、認めなかった。認めれば、崩れる。


「ロタール。姉に、文を」


「文、で、ございますか」


「ええ。優しい、文を。……最後に一度だけ、姉妹で、お話が、したいの。お茶でも、飲みながら。昔みたいに」


 ロゼリアは、微笑んだ。今度は、鏡を、見ながら。


 鏡の中の聖女は、まだ、美しかった。まだ、間に合う。


「わたくし、姉が、大好きなの。ずっと、そうでしたのよ。……ねえ、ロタール。そうでしょう?」


 ロタールは、答えなかった。


 窓の外で、聖名広場の鐘が、鳴った。次の祭りまでの、日を、数えるように。

お読みいただきありがとうございます。


聖女の奇跡が、弱り始めました。

信じる心が揺らぎ、姉が覚えられるほどに、燃料は、二重に、細っていきます。

空っぽになることを恐れたロゼリアは、姉を「完全な献星」に戻す、最後の儀式を、思い描きます。


次回、第53話「姉妹の茶会」。

罠と知りながら、エステルは、妹の待つ卓へ、向かいます。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

鏡の中の、まだ美しい聖女に、☆ひとつ、お力添えを。


蒼空ルーシェ

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