第50話 四十七の名前を、呼ぶ
証言台に、立った。
高い天井の、丸い部屋。数百の目が、私を、見ていた。見ていない目も、あった。それでも、私は、まっすぐ、前を、向いた。
「述べよ」
ザイフェルト卿が、言った。
私は、一度、息を、吸った。テオの、木の星を、握りしめた。そして、口を、開いた。
「私の名は、エステル・メルローゼ。……この場で、油と、呼ばれた者です。制度の、付属物と。名を、口にする値もないと、言われた者です」
部屋が、静まった。
「けれど、私には、名前が、あります。忘れられても、消されても、私は、ここに、います。——そして、私と、同じように、名前を、持っていた方々が、他にも、いらっしゃいます」
私は、後ろの、四十七冊の帳面を、見た。
「四十七人。三百年で、献星に、選ばれ、静修院で、消えていった、娘たちです。教会の記録では、皆さま『献星、消失。制度、正常』の、一行きり。……その、一行の、お名前を、これから、呼びます」
「無駄なことを」
ロタールが、鼻を、鳴らした。
「そのような、覚え書きを、諳んじたところで——」
「リディアさま」
私は、構わず、呼んだ。
「マルゴットさま。エルゼさま。テレジアさま。——白い椿が、好きだった、リディアさま。子守唄を、逆さから歌う癖のあった、マルゴットさま。九つで、選ばれた、エルゼさま」
一人ずつ。顔を、思い浮かべながら。帳面で、読んだ、その人の、好きだった花を、歌を、最後の言葉を、添えて。
部屋は、静かだった。誰も、私を、止めなかった。止められなかった。
「……三十年前の、アンネリーゼさま。星のかたちの、焼き菓子が、好きだった方。焼くと、いちばん先に、手を、伸ばした方。——お母さまが、今も、あなたのために、星菓子を、焼いています」
教会席の、どこかで、息を、呑む音が、した。
私は、呼び続けた。二十人目。三十人目。一人も、飛ばさず。一人も、間違えず。四十人目。四十五人目。
「……四十七人目」
最後の名を、呼び終えたとき、部屋は、水を打ったように、静まり返っていた。
四十七の名前が、三百年で初めて、王国で一番、声の届く場所に、満ちていた。
◇
「これは、覚え書きでは、ありません」
私は、ヴィオラさんに、目を、送った。彼女が、立ち上がって、一枚の、大きな紙を、卓に、広げた。
「王宮記録庁、第三書庫の、公的記録です。左の列——歴代の、聖女の奇跡が、行われた、日付と、時刻。右の列——四十七人の献星が、静修院で『消失』と、記録された、日付と、時刻」
ヴィオラさんの、指が、二つの列を、上から下へ、なぞった。
「四十七件。すべて、一致しています。奇跡の、始まった刻限に、献星が、消えています。誤差、四秒。……偶然では、ありえません」
紙の上で、二つの列が、糸で、縫い合わされたように、並んでいた。
奇跡と、消失。光と、その、燃料。
「聖女の奇跡とは」
私は、言った。静かに。怒りの温度が、下がっていくのを、感じながら。
「同じ血の、娘から、吸い上げた、存在の、承認です。私が、忘れられていく速さと、妹の奇跡は、繋がっています。……妹が、輝くたびに、私は、一欠片ずつ、消えていく。三百年、そうやって、四十七人が、油に、されてきた」
「証拠が、ない!」
ロタールが、叫んだ。
「日付の、一致など、こじつけだ! 娘が、名前を、諳んじただけだ! 三百年分の、否だと? どこに、その、否が——」
「ここに、あります」
私は、卓の下の、木箱を、証言台に、上げた。
蓋を、開けた。
紙が、あふれた。「エ」の字の、書き損じが。三百四十八枚が。
◇
「私の、母の、書いた紙です」
私は、一枚を、掲げた。震えた線の「エ」を。
「母は、静修院に、収容されています。呪いに、記憶を、奪われて。……私のことも、忘れました。丸ごと。それでも、母は、毎晩、名前を、書いています。誰の名かも、分からないまま。三百四十八枚。半年、一夜も、休まず」
私は、箱を、両手で、抱いた。
「教会の紙には、母は『署名不能』と、あります。でも、違います。母は、署名を、拒んだんです。娘を、消す紙に。そして、忘れることにさえ、抗い続けた。……これが、否です。三百年、制度が、正常だと言い張ってきたことへの、一人の母の、三百四十八枚の、否です」
ザイフェルト卿が、席を、立った。
白髪の老人が、証言台まで、降りてきた。そして、木箱の中の、一枚を、手に、取った。
長い、沈黙だった。
彼は、その「エ」の字を、しばらく、見ていた。震えた線の、名前になり損ねた、名前を。
「……モリスとやら」
卿は、顔を、上げた。
「四十七冊の、いちばん、古いものを。最初の頁を、開いて、見せよ」
モリスさんが、進み出た。一番下の、一番、古い帳面を、抜き取った。表紙を、開いた。
最初の頁は——破られていた。
けれど、綴じ目の際に、破り残された、細い紙片が、あった。そこに、掠れた、古い署名が、覗いていた。
『アステ——』。
そこで、途切れていた。以降は、読めなかった。三百年の、埃と、涙で、掠れて。
誰の名かは、分からない。けれど、それが、四十七冊の、いちばん最初の頁に、あったことは、確かだった。
ザイフェルト卿は、その、掠れた名を、長いあいだ、見つめていた。
◇
「本院は、判ずる」
卿の声が、部屋に、落ちた。
「星灰の塔の、特許状は——有効である。当該観測所の記録は、公的記録として、採用する。そして、『献星』なる者は、制度の付属物に、あらず。名を持ち、戸籍を持つ、王国の、臣民である」
教会席が、崩れた。
ロタールが、青ざめて、立ち尽くした。父は、うつむいた。
ガリウス大司教だけが、動かなかった。穏やかな顔のまま、静かに、席を、立った。
その日のうちに、教会は、動いた。三百年の秘密を、抱えた老人を、守りきれないと、悟ったのだろう。醜聞から、身を、切り離すように。大司教ガリウスは、その地位を、追われ、聖職を、剥がれた。破門。三百年、井戸の水を汲んできた人が、自らの井戸に、投げ込まれた。
暴力は、一つも、なかった。
剣も、魔法も。ただ、記録と、名前と、震えた「エ」の字が、あっただけだった。
◇
退廷していく、ガリウスが、私の傍を、通った。
破門された、老人は、私を、見た。穏やかな顔は、崩れていなかった。ただ、目の奥に、暗い、深い、諦めのようなものが、あった。
「……見事だ、娘」
低い声だった。
「私は、負けた。制度は、暴かれた。だが——一つだけ、覚えておくがいい」
彼は、教会席の、高みを、振り返った。
そこに、まだ、妹が、いた。白い聖衣の、聖女ロゼリアが。凍りついたように、動けずに。
「聖女がいる限り、献星は、選ばれ続ける」
ガリウスは、言った。
「奇跡を、失うことを、あれが、恐れる限り。……私を、倒しても、呪いは、解けぬ。制度の、頭を、挿げ替えても、制度そのものは、生きている。次の油を、探し始めるのは——さて、誰かな」
彼は、私に、背を、向けた。
石の床を、遠ざかっていく、足音を、聞きながら、私は、妹を、見た。
ロゼリアの顔から、花のような微笑みが、消えていた。
残っていたのは——空洞だった。
お読みいただきありがとうございます。
エステルは、四十七の名を、一人も飛ばさず、呼びました。
奇跡と消失の、日時の一致。母の、三百四十八枚の「エ」。三百年分の、否。
大司教ガリウスは、失脚し、破門されました。暴力は、一つも、ありませんでした。
そして、最古の帳面の、破られた頁に、掠れた署名——『アステ——』。
けれど、ガリウスは、去り際に、言い残しました。「聖女がいる限り、献星は、選ばれ続ける」と。
次回、第51話「失脚のあとで」。
呪いは、まだ、解けていません。
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蒼空ルーシェ




