第5話 記録の最初の頁
朝、塔の扉が、叩かれた。
麓のルメール村から、村長さんが、坂道を登ってきたのだった。息を切らせ、帽子を胸に当てて、何度も頭を下げる。
「番人さま。また、お願いに、上がりました」
アルヴェインさまは、頷いて、客間に通した。私は、お茶を運びながら、話を聞くことになった。
「村はずれの墓地に、古い墓が、ひとつ、ございましてな。誰の墓か、もう、誰も知らんのです。石も削れて、名前も読めません。今度、墓地を整えるんですが——誰とも知れんまま、掘り返すのも、罰当たりな気がしましてな」
「いつ頃の墓だ」
「祖父さまの代には、もう、あったと」
「分かった。調べる」
それだけだった。村長さんは、何度も頭を下げて、帰っていった。
「あの……アルヴェインさま。お墓の主を、調べられるのですか」
「調べられる」
彼は、書庫へ歩きながら、言った。
「この塔は、星見台だ。だが、それだけではない。三百年、この地方の、記録を預かってきた。生まれた子の名前。婚姻。死。村の帳面が火事で焼けても、ここの写しは、焼けない」
書庫の棚から、彼は、迷いなく、一冊を抜いた。何千冊もある棚から、たった一冊を。
「七十年前の、ルメール村の埋葬記録。墓地の北東の区画は、この帳面の範囲だ」
「……どうして、棚の場所が、すぐに」
「覚えている」
当たり前のことのように、彼は言った。
「全部ですか。何千冊も」
「全部だ」
そのときの私は、まだ、その言葉の本当の重さを、知らなかった。ただ、すごい、と思っただけだった。
覚えているということが、どれだけのものを抱え続けることなのか。私が、それを知るのは、もっと、ずっと、あとの話。
◇
調べものは、三日かかった。
帳面の埋葬記録と、墓地の配置図を突き合わせる。私は読み上げ係で、テオは頁押さえ係だった。モリスさんが、新しい紙に、分かったことを清書していく。
そして、見つかった。
「——ベルタ・クローム。粉挽きの、クロームさんの、おかみさん」
七十年前に亡くなった、おばあさんだった。子供がなく、夫に先立たれ、最後は一人だった。けれど記録には、こうあった。
『村の子らに、冬のあいだ、粥を振る舞うこと、二十年。子らはみな、ベルタ婆の粥で、冬を越えた』
「……この人を、覚えている人は、もう」
「いない。粥で冬を越えた子らも、皆、土の下だ」
アルヴェインさまは、清書された紙を、見つめた。
「だが、今日から、また、いる」
「え?」
「村長に、この記録を渡す。墓石は、彫り直される。ベルタ・クロームの名前で。墓地を整えに来た村の者は、名前を読む。誰かが、子供に話す。『この人は、昔、村の子供に粥を振る舞った人だ』と」
彼は、紙を、丁寧に巻いた。
「忘れられた人を、世界に、返す。——それが、この塔の、もう一つの仕事だ」
◇
数日後、村から、報せが来た。
彫り直された墓石の前に、村の人たちが、野の花を、置いていったという。七十年、誰も足を止めなかった墓の前に。
村長さんからの礼状には、こう、あった。
『婆さまの粥の話を、孫にしてやりました。孫は、自分も誰かに粥を作る、と申しております』
読み上げながら、私は、胸の奥が、温かくなるのを感じた。
ベルタさんは、七十年前に亡くなった。それは、変わらない。でも、今日、ルメール村には、ベルタさんの話をする声が、ある。粥を作りたいと言う子供が、いる。
消えた人の光が、まだ、届いている。
「あの、アルヴェインさま。私にも、このお仕事、手伝わせていただけませんか」
「もう手伝っている」
「いえ、その、もっと、ちゃんと。私、覚えるのは、得意ですから。それに——」
言葉を、選んだ。
「忘れられるのが、どんなに寒いか。私、知っていますから。誰かを、そこから連れ戻すお手伝いが、できるなら……それは、私が、私の呪いに勝てる、唯一のやり方のような、気がするんです」
アルヴェインさまは、私を、しばらく見ていた。
それから、書庫の机の、一番いい場所——窓から星の見える席を、指した。
「明日から、君の席だ」
◇
その夜、寝る前に、私はもう一度、書庫に降りた。
モリスさんが、一日の終わりの記録を、つけていた。
「モリスさん。この塔の記録は、いつから、あるんですか」
「三百年前からで、ございます」
「最初の頁を、見ても?」
モリスさんの、羽根ペンが、止まった。
長い、間があった。
「……ご覧に、なりますか」
彼は、棚の最奥から、一番古い帳面を、両手で、捧げるように持ってきた。革の表紙は、ひび割れていた。
最初の頁を、開く。
古い、几帳面な字で、日付と、塔の創設の経緯らしきものが、記されていた。そして、その下。最初に記録された人の名前が、あったはずの場所は——
破られていた。
頁の下半分が、鋭く、引き千切られていた。千切られた断面だけが、三百年分、茶色く変色していた。
「モリスさん。これは」
「わたくしが、お答えして、よい事では、ございません」
老司書は、静かに、帳面を閉じた。
「ただ……すべてを書き留めるこの塔で、ただ一つ、欠けたままの記録が、それで、ございます」
お読みいただきありがとうございます。
塔のもう一つの仕事——「忘れられた人を、世界に、返す」。
ベルタ婆さんの粥の話が、七十年ぶりに、村に戻りました。
そして、三百年分の記録の、最初の頁。
最初の名前だけが、破り取られていました。
次回、第6話「七つの石」。
腕輪の刻限が、はっきりと、示されます。
そして王都から、あの報せが、届きます。
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