第4話 名前のない少年
あの夜から、男の子は、私のそばを離れなくなった。
書庫で帳面を写していると、隣の椅子に座って、足をぶらぶらさせている。厨房でハンナさんを手伝っていると、戸口から、じっと見ている。
歳は、十くらい。痩せていて、目が大きい。
話しかけると、口を開くのだけれど。
「ぼくは、その……」
いつも、そこで、言葉が、消えてしまう。語尾が、夕暮れの光みたいに、すうっと薄れて、なくなる。
「無理に話さなくて、いいんですよ」
私がそう言うと、男の子は、ほっとした顔で、頷いた。
その夜、ハンナさんが、教えてくれた。
「あの子には、名前が、ないんです」
「……ない?」
「忘れたんですよ。自分で、自分の名前を」
ハンナさんは、竈の火を見ながら、ゆっくり話した。
「あの子の母親は、エステルさまと、同じでした。忘れ星の呪いを受けて、この塔に来て——五年前に、最後の石が、消えました」
心臓が、冷たくなった。
最後の石。七つ目。自分自身の輪。
「母親が消えた朝、あの子は、母親のことだけじゃなく、自分の名前まで、忘れてしまっていたんです。母親に呼ばれることで、覚えていた名前だったから。呼ぶ人がいなくなって、名前のほうも、いられなくなったんでしょうねえ」
「そんな……それじゃ、あの子は、五年間、ずっと」
「ええ。名無しのままです。アルヴェインさまは、知っておいでですよ。台帳のどこかに、書いてあるはずですから。でもね」
ハンナさんは、首を振った。
「教えては、くださらないんです。『記録された名前を返しても、それは、紙の名前だ』って。『名前は、呼ぶ人と、呼ばれる者の間に、戻らなければ、意味がない』って。……あたしには、難しいことは分かりませんけどね。あの方なりに、あの子の名前を返す、正しい順番を、お探しなんだと思いますよ」
◇
次の日、書庫で、男の子が、私の袖を引いた。
窓の外を、指さしている。
夜だった。辺境の空に、星が、降るように瞬いていた。
「きれいですね」
男の子は、頷いて、それから、私を指さした。
「……私?」
「星の、ひと」
初めて、語尾まで、ちゃんと聞こえた声だった。
「ぼく、見てたんだ。あなたが、来た夜。馬車から降りて、空を見て、息が、止まってた。星と、おんなじ目を、してた。だから、ぼくの中で、あなたは、星のひと」
男の子は、そこまで一息に言って、急に恥ずかしくなったのか、語尾が、また消えた。
「だから、その……」
「嬉しいです」
私は、膝を折って、男の子と目の高さを合わせた。
「私、エステルというんです。星、という意味の、名前なんですよ。あなたは、知らずに、私の名前の意味を、呼んでいてくれたんですね」
男の子の、大きな目が、見開かれた。
「あのね。私、あなたに、約束したいことがあるんです」
私は、男の子の、小さな両手を、取った。
「私、覚えるのだけは、得意なんです。だから、いつか、あなたの名前を見つけたら——絶対に、忘れません。毎日、呼びます。朝も、昼も、夜も。あなたが、うんざりするくらい。そうしたら、名前は、もう二度と、どこにも行けません」
男の子は、長く、私を見ていた。
大きな目に、みるみる、水が溜まって。
「……ぼく」
「はい」
「ぼく、それまで、なんて、呼ばれたら、いい……?」
考えた。この子の母親が、最後まで大事にしていたものを、私はまだ知らない。勝手な名前は、つけられない。でも、呼び名がないのは、もっと、寂しい。
「テオ、というのは、どうですか」
「テオ……?」
「古い言葉で、『贈りもの』。本当の名前が見つかるまでの、仮の呼び名です。あなたがこの塔にいてくれることは、私には、贈りものみたいなものですから」
男の子——テオは、口の中で、何度も、その音を転がした。てお。テオ。テオ。
それから、にっと、笑った。あの夜の食堂でも見せなかった、年相応の、子供の顔だった。
「うん。……ぼく、テオ」
◇
その夜の食堂で、ハンナさんが、スープをよそいながら、言った。
「テオ、お代わりは」
「いる!」
元気な返事に、ハンナさんが、おたまを持ったまま、固まった。モリスさんが、眼鏡の奥で、目をしばたたいた。
「……ふむ。本日より、当塔の少年は、テオ、と」
羽根ペンが、走った。
「——書き留めて、おきましょう」
上座で、アルヴェインさまが、その様子を、静かに見ていた。
食後、廊下ですれ違いざま、彼は、私にだけ聞こえる声で、言った。
「五年間、誰にもできなかったことだ」
「私は、ただ、仮の名前を」
「仮の名前で、いい」
彼は、立ち止まらずに、すれ違っていった。
「呼ぶ人と、呼ばれる者がいれば、名前は、育つ。……君は、いいものを、この塔に持ち込んだ」
その背中に、私は、小さく、頭を下げた。
あとで知った。その夜、テオの寝室の窓辺に、新しい蝋燭が、一本、増えていたことを。
アルヴェインさまが、黙って、置いていったのだそうだ。
お読みいただきありがとうございます。
名前のない少年に、仮の呼び名が、できました。
テオ。「贈りもの」という意味です。
エステルは約束しました。いつか本当の名前を見つけたら、
うんざりするくらい、毎日、呼ぶと。
次回、第5話「記録の最初の頁」。
塔の「仕事」のお話です。
忘れられた人を、世界に、返す仕事——。
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