第3話 私は、忘れない
塔に来て、七日が経った。
「君が来て、今日で、七日になる」
朝の食堂で、アルヴェインさまが言った。
「塔の茶葉の減りが、一・五倍になった。ハンナの菓子の生地は、二倍だ」
「……ごめんなさい」
「責めていない。記録を、言っただけだ」
彼はいつも、そうだった。優しい言葉は、言わない。ただ、数字だけが、妙に、正確だった。
昼間は、モリスさんの書庫仕事を手伝った。古い帳面の頁を繰り、掠れた文字を読み上げ、写す。私が一度読んだ頁を、目を閉じてそのまま諳んじてみせると、モリスさんは羽根ペンを取り落とした。
「お嬢様。それは、得難い、御力でございます」
「ただの、記憶です」
「ただの記憶、と仰いますがな。三百年、この塔が守ってきたものは——まさに、それで、ございますよ」
夕方には、ハンナさんと厨房に立った。階段の陰から、小さな男の子が、こちらを見ていることに、私はもう気づいていた。声をかけると、逃げてしまう。ハンナさんは「そのうちですよ」と笑った。
穏やかな、七日間だった。
呪いのことを、忘れそうになるくらい。
——その夜が、来るまでは。
◇
夜、荷物が届いた。
王都からの、大きな包み。差出人は、マルゴだった。私の冬服や、読みかけの本。実家に残してきたものが、丁寧に、詰められていた。
マルゴ。最後まで、私を覚えていてくれた、たった一人の。
包みの上に、手紙が、載っていた。
私は、封を切って——指が、止まった。
『星灰の塔の、お客様へ』
宛名が、そう、なっていた。
『お屋敷のお部屋に、お忘れ物がございましたので、お送りいたします。どなたのお品か、わたくしどもには分かりかねますが、塔にいらしたお客様のものではないかと、執事が申しますので』
お客様。
どなたのお品か、分かりかねます。
マルゴの字だった。間違いなく、マルゴの字で——マルゴは、もう、私を、覚えていなかった。
袖の中で、何かが、小さく、音を立てた。
腕輪を、引き出した。
七つの石のうち、二つ目が——昨日まで、淡く光っていた石が、目の前で、すうっと、色を失っていくところだった。
砂が乾くように。火が消えるように。
石は、黒くなった。
使用人たちの輪が、消えたのだ。ロッドさんも、料理番のみんなも、マルゴも。十七年、同じ屋根の下にいた人たちの中から、私は、いなくなった。
「……あ」
声が、出た。それきり、何も、出なかった。
涙も、出なかった。泣くというのは、まだ、どこかに訴える先がある人のすることだ。私の訴える先は、今、目の前で、黒くなった。
◇
どれくらい、そうしていたのか。
「エステルさま。お夕食ですよ」
ハンナさんの声がして、私は、のろのろと食堂へ降りた。心配をかけてはいけない。微笑む以外のやり方を、私は知らない。
食堂に入って、足が、止まった。
テーブルに、いつもより、たくさんの皿が並んでいた。湯気の立つシチュー。焼きたてのパイ。星の焼き菓子は、山盛りだった。
「あの……今日は、何かの、お祝いですか」
「ええ」
ハンナさんが、私の椅子を引いた。
「エステルさまが、この塔にいらして、七日目の、お祝いです」
「アルヴェインさまが、朝、仰ったでしょう」
モリスさんが、帳面を膝に、目を細めた。
「七日。茶葉が一・五倍。菓子の生地が二倍。——それはな、お嬢様。この塔が、七日で、それだけ、賑やかになったという、記録で、ございますよ」
席に着くと、階段の陰から、あの男の子が、そろそろと出てきた。そして、私の隣の椅子に、無言で、ちょこんと座った。
「あら」
ハンナさんが、目を丸くした。
「この子が自分から席に着くなんて、初めてですよ。……エステルさま、どうやら、あなたの隣が、いいみたいです」
「エステルさま」
モリスさんが、グラスを掲げた。
「エステルさま」
ハンナさんが、続いた。
男の子は、声を出さなかった。代わりに、小さな手で、私の袖を、きゅっと、握った。
名前。
私の名前が、この食堂に、何度も、響いていた。今日、世界のどこかで、私の名前は、また一つの輪から、消えたのに。ここでは、こんなにも、当たり前に、呼ばれていた。
「……どうして」
堪えていたものが、震えた。
「どうして、皆さん、そんなふうに、呼んでくださるんですか。私、今日、また、忘れられたのに。マルゴが——いちばん、覚えていてくれた人が、私を——」
言葉が、続かなかった。
そのとき。
上座の席で、アルヴェインさまが、静かに、グラスを置いた。
「エステル」
初めて、呼び捨てだった。
「君の腕輪の石は、あと五つだ。これから先も、消えるたびに、君は今夜と同じ顔をするのだろう。それを、止める力は、私にはない」
彼は、まっすぐに、私を見た。
「だが、一つだけ、確かなことを言う」
灰色の瞳は、揺れなかった。
「私は、忘れない。三百年、ただの一度も、忘れたことがない。この塔に来た娘の名前を。顔を。声を。好きだった花の名前まで——全員、覚えている。だから」
ほんの少しだけ、彼の声が、低くなった。
「世界中の石が黒くなっても、君の名前は、ここにある。エステル・メルローゼ。それだけは、呪いより、確かだ」
涙が、落ちた。
今度は、止めなかった。
隣で、男の子が、私の袖を、ずっと、握っていてくれた。
お読みいただきありがとうございます。
二つ目の石が、消えました。
マルゴの手紙の宛名は、「お客様」でした。
けれど、その夜の食堂で、エステルの名前は、何度も、呼ばれました。
そして番人は、言いました。「私は、忘れない」と。
三百年、ただの一度も。
次回、第4話「名前のない少年」。
エステルの袖を握っていた、あの子のお話です。
彼には、名前が、ありません。
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