第2話 三百年と、四十一日
塔の中は、外から見るより、ずっと広かった。
一階は広間と食堂。壁という壁が、本棚だった。背表紙のない古い帳面が、床から天井まで、整然と並んでいる。
「散らかっていて、すまない」
番人さまは、そう言った。どこも散らかってなどいなかった。机の上のペン一本まで、定規で測ったように置かれていた。
「あの、まだ、お名前を」
「アルヴェイン」
「アルヴェインさま。家名は」
「ない。捨てたのではなく——古すぎて、残っていない」
彼は、燭台に火を入れながら、付け足した。
「この塔の番人を、三百年している。正確には、三百年と——十七年。番人になる前にも、十七年、生きていた。いや、これは君に関係のない数字だ。忘れてくれ」
「忘れません」
自分でも、驚くくらい、はっきりした声が出た。
アルヴェインさまが、振り返った。
「私、忘れないんです。昔から。人の名前も、誕生日も、好きな花も。……覚えていても、誰も、覚えていてくれませんでしたけど」
彼は、しばらく私を見て、それから、小さく頷いた。
「いい耳と、いい記憶だ。この塔では、それは、何よりの財産になる」
◇
食堂に、夕食が並んでいた。
温かいスープ。焼きたてのパン。それから、星のかたちの、小さな焼き菓子。
「お客様が見えるって聞いたから、多めに焼いたんですよ」
恰幅のいい女の人が、エプロンで手を拭きながら、笑った。
「料理番のハンナです。さ、エステルさま。冷めないうちに、どうぞ」
息が、止まった。
「……今、なんと」
「冷めないうちに、どうぞ?」
「その前です」
「エステルさま?」
二度目だった。今夜、二度目。私の名前を、ためらいもなく、呼ぶ人がいた。
「あらあら。泣くほどお腹が空いてたんですか。たんと召し上がれ」
ハンナさんは、それ以上、何も訊かなかった。スープの皿を、私の前に、そっと押し出しただけだった。
暖炉のそばには、もう一人いた。背の曲がった、小さなお爺さん。膝の上に大きな帳面を広げ、羽根ペンを構えている。
「司書のモリスでございます。お嬢様。塔へのご到着は、本日、夜の十の鐘の少し前——と」
お爺さんは、さらさらと、ペンを走らせた。
「——書き留めて、おきましょう」
「あの、何を、書いていらっしゃるんですか」
「すべてで、ございます」
モリスさんは、当然のことのように言った。
「この塔では、すべてを、記録いたします。お嬢様が今夜、スープを残さず召し上がったことも。泣きながらパンをちぎったことも。三百年、そうして参りました」
「どうして、ですか」
「紙は、忘れませんので」
その言葉に、王都からの三日間の宿を、思い出した。私を二度忘れた宿の主人と、私を覚えていた帳場の記録。
人は、忘れる。紙は、忘れない。
この塔は、紙の側に立っている場所なのだと、思った。
◇
食事のあと、アルヴェインさまが、呪いの話をした。
「君の呪いについて、知っていることを言う。三つだけだ」
彼は、指を一本、立てた。
「一つ。君のことは、名前から先に、忘れられていく。名前、顔、声。最後に、いたこと、そのもの」
二本目。
「二つ。君の腕輪の七つの石は、君を覚えている人の輪の数だ。遠い知人。使用人。社交界。友人。家門。母君。そして——君自身」
私は、袖の中の腕輪に、触れた。七つのうち、一つは、もう黒い。
「あの。もう黒くなっているのは……」
「遠い知人の輪だ。呪いの発現から、間もなく消えたのだろう。浅い輪から、順に、消える」
「浅い輪から、順に」
「ああ。ただし——輪の中の、一人ひとりが霧に呑まれる速さは、別だ。絆の深い者ほど、呪いは、多くを喰う。名前も、顔も、早くに奪われる。……だが、『この世にいた』という、最後の一欠片だけは、深い絆ほど、長く、粘る。石が消えるのは、輪の全員から、その一欠片まで、消えたときだ」
母の、あの朝の顔を、思い出した。母の中で、私の名前も顔も、もう霧の向こうだった。けれど——最後の一欠片は、まだ、残っているのかもしれなかった。
「三つ。この塔の中にいる者は、君を忘れない」
「……どうして、ですか」
「それを話すには、三百年かかる」
アルヴェインさまは、立ち上がった。
「今夜は、もう休むといい。部屋は二階だ。ハンナが湯を沸かしてある」
「アルヴェインさま」
「なんだ」
「四十一日前から、待っていてくださったと、仰いました。どうして、会ったこともない私を」
彼は、少しだけ、黙った。
それから、燭台を手に、書庫の奥へ、歩いていった。ついて来い、ということらしかった。
書庫の、いちばん奥。
他の棚より、ひときわ丁寧に磨かれた棚に、同じ装丁の帳面が、並んでいた。
一冊、二冊、三冊——数えて、途中でやめた。何十冊も、あった。どの背にも、小さな星の印が、一つずつ、押されていた。
「これは、全部——」
「記録だ」
アルヴェインさまは、燭台の灯りを、棚にかざした。
「三百年分の。……君と、同じ呪いを受けた、娘たちの」
灯りの中で、何十個もの星の印が、静かに、光った。
お読みいただきありがとうございます。
エステルが、塔の家族に会いました。
ハンナさんは名前を呼び、モリスさんは「すべて」を書き留めます。
呪いの決まりごとも、三つだけ、明かされました。
そして書庫の奥には——同じ装丁の帳面が、何十冊も。
エステルは、最初の一人では、ありませんでした。
次回、第3話「私は、忘れない」。
腕輪の石が、エステルの目の前で、初めて消えます。
その夜の、塔の夕食の話です。
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