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第1話 今朝、母は、初めて会う人の顔をした

 今朝、母は、私に、初めて会う人の顔をした。


「あら……どちらさまかしら」


 それが、十七年間、娘だった私への、朝の挨拶だった。


 エステル・メルローゼ。メルローゼ伯爵家の長女。それが私の名前だ。けれど、この屋敷でその名前を口にする人は、もう、ほとんど残っていない。


 呪いは、名前から奪っていく。


 最初に忘れられるのは名前。次に顔。最後に、いたことそのもの。教会の査問官はそれを「忘れ星の呪い」と呼んだ。妹のロゼリアが聖女候補に選ばれた日から、私は少しずつ、この世界から薄れている。


「奥様、こちらは……ご旅行のお客様です。本日お発ちになります」


 古株の侍女のマルゴが、震える声でそう取り繕った。マルゴはまだ、私を覚えている数少ない一人だ。けれど先週から、私を呼ぶとき、一瞬、言葉に詰まるようになった。名前が、喉の手前で消えるのだという。


「そう。お気をつけて、お客様」


 母は微笑んで、食堂へ歩いていった。その左手首に、見慣れない包帯が巻かれていたことに、私は気づいた。けれど、尋ねる資格は、もう私にはなかった。


 客人。


 この家で生まれて、この家で育って、最後の朝に、私は客人になった。



   ◇



 旅支度は、鞄一つで済んだ。


 行き先は北の辺境、星灰ほしばい)の塔。忘れ星の呪いを受けた娘が送られる場所。古い書類には「献星の保護施設」とあったけれど、使用人たちは陰でこう呼んでいた。


 ——忘れられた者の、捨て場所。


 玄関へ降りると、妹がいた。


「お姉さま、本当に行ってしまわれるの?」


 ロゼリア・メルローゼ。聖女候補。白い祭服に、金の髪。完璧に悲しそうな顔。


「わたくし、毎晩泣いておりますのよ。お姉さまのこと、お祈りするたびに、涙が出て」


「ありがとう、ロゼリア」


「教会の皆さまは仰るの。これは尊い御役目だって。お姉さまの呪いのおかげで、わたくしの奇跡は世界を照らすのだって。……あ」


 妹は、白い手を口元に当てた。


「いやだ、わたくしったら。おかげ、だなんて。違うのよ、お姉さま。そういう意味では——」


「わかっています」


 私は微笑んだ。微笑む以外のやり方を、この家は私に教えなかった。


 扉の外には、もう一人いた。


「クラウスさま」


「……ああ」


 クラウス・ヴィンター侯爵子息。三日前まで、私の婚約者だった人。彼は私と目を合わせず、馬車の車輪のあたりを見て言った。


「君には、その、同情している。呪いのことを知っていたら、僕は最初から——いや。とにかく、知らなかったんだ。僕は何も聞かされていなかった。それだけは、誰に対しても、そう言える」


 おかしなことを言う、と思った。


 呪いが確定したのは十日前。婚約解消の申し入れは、その翌朝だった。誰よりも早く。誰よりも正確に。何も知らなかった人の速さでは、なかった。


 けれど私は、それも、覚えておくだけにした。


「お元気で、クラウスさま」


 馬車に乗り込むとき、マルゴが駆けてきて、私の手に小さな包みを押し付けた。開けると、古い腕輪だった。銀の輪に、小さな石が七つ。星のかたちに、並んでいる。


「奥様が……いえ、その、お屋敷の、どなたかが。ずっと前に、お嬢様にと」


 マルゴはもう、それが誰だったか、思い出せないようだった。


 七つの石のうち、一つは、すでに光を失って、黒くなっていた。


 馬車が動き出す。


 窓の外で、生まれた家が小さくなっていく。誰も、手を振らなかった。振る相手を、覚えていないのだから、当たり前だった。


 私は膝の上で、腕輪を握った。


 誰かに、名前を呼ばれたい。


 たったそれだけのことが、どうして、こんなに遠いのだろう。



   ◇



 北への街道を、三日。


 宿の主人は、朝になると私の顔を忘れた。部屋代を二度払いそうになって、帳場の記録だけが私を覚えていた。紙は、忘れない。人だけが、忘れていく。


 三日目の夜、馬車は山道を登りきった。


 御者が、前方を指した。


「お客さん、あれが——星灰の塔でさ」


 夜空の下に、古い石の塔が立っていた。


 星見台のある、背の高い塔。崩れかけた外壁。けれど、その窓に。


 灯りが、三つ、点っていた。


 暗い山の中で、その三つの灯りだけが、温かい色をしていた。


 馬車を降りると、夜気が頬を刺した。空を見上げて、息が止まった。星が、降るようだった。王都では見たことのない数の星が、頭の上いっぱいに広がっていた。


 塔の扉の前に立つ。


 ノッカーに手を伸ばす前に。


 扉が、開いた。


 背の高い男の人が、立っていた。若い——ように見えた。二十八か、それくらい。黒い外套。灰色の瞳。その瞳が、まっすぐに、私を見た。


 値踏みでも、同情でもなく。


 ただ、確かめるように。


「エステル・メルローゼさま」


 世界が、止まった気がした。


 フルネームだった。間違えずに。詰まらずに。喉の手前で消えたりせずに。私の名前が、夜の空気の中に、はっきりと、響いた。


「……どうして」


 声が、震えた。


「どうして、私の名前を、ご存じなのですか。私は——私のことは、皆、忘れて——」


「お待ちしておりました」


 男の人は、そこで少しだけ、目を伏せた。


「……いや。これは、正確ではない。待っていたのは、四十一日前——王都から、報せが届いてからだ。あなたの名前を知ったのも、その日だ。エステル・メルローゼ。十七歳。メルローゼ伯爵家長女。好きな花は、聞いていない。これから、聞く」


 言っていることの半分も、わからなかった。


 ただ、わかったのは。


 この人は、私の名前を、呼んだ。二回も。


 目の奥が、熱くなった。だめだと思った。初対面の人の前で。でも、止まらなかった。頬を、涙が、落ちていった。


 男の人は、慌てなかった。泣き止むのを待つのでもなく、ハンカチを探すのでもなく、ただ、扉を大きく開けた。


「中で、話そう。茶を淹れる。……君は、この塔の、四十一日ぶりの客人だ」


 塔の中から、温かい光と、焼き菓子の匂いがした。


 私は、涙を拭いて、敷居をまたいだ。


 七つの星の腕輪が、袖の中で、小さく鳴った。


お読みいただきありがとうございます。


「忘れられ令嬢」エステルの物語、始まりました。

母に客人と呼ばれ、妹に見送られ、エステルは北の塔に着きました。

そして、扉を開けた番人が——四十一日前から、彼女の名前を、覚えていました。


次回、第2話「三百年と、四十一日」。

塔の住人たちと、呪いの正体が、すこしだけ、明らかになります。

彼が「忘れない」と言う、その意味も。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

塔の窓辺の三つの灯りに、☆ひとつ、お力添えを。


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