第48話 審問前夜
その夜、私は、眠れなかった。
宿の小さな机で、四十七の名簿を、もう一度、初めから、諳んじていた。声に出さず、唇の形だけで。一人も、間違えないように。一人も、飛ばさないように。
リディアさま。マルゴットさま。エルゼさま。テレジアさま。……アンネリーゼさま。
一人ずつ、指を、折る。名前と、好きだった花と、最後の言葉を、一組にして。折り終えた指を、また、伸ばして、初めから、繰り返す。
覚えることには、慣れている。忘れられる側に、生まれたから。私は、人より、ずっと、覚えることが、得意になった。……皮肉なものだ、と、思う。
腕輪の、六つ目の石が、机の灯りの下で、弱く、明滅していた。母の石。今夜も、母は、糸杉の窓辺で、名前を、書いているだろうか。
窓の下で、王都の鐘が、十一を、打った。
扉が、静かに、叩かれた。
「起きているか」
アルヴェインさまだった。開けると、彼は、燭台を、一つ、持っていた。廊下は、暗く、その炎だけが、揺れていた。
「明日は、九時から。起床は、六時。……もう、休むべき時刻を、二時間、過ぎている」
「はい。……でも、目が、冴えて」
「分かっている。私も、そうだ」
彼は、部屋に、入らなかった。開いた扉の、境目に、立ったまま、燭台の火を、見ていた。
私は、少し、待った。この人が、言葉を、探すときの、間を、私は、もう、知っている。数字を並べるのは速いのに、心の話になると、いつも、こんなふうに、時間がかかる。
「エステル」
「はい」
「私は、三百年、忘れない側に、いた」
炎が、彼の横顔を、半分だけ、照らしていた。
「忘れられていく娘たちを、覚えている側だ。看取って、名前を、書き留めて。それが、私の、できることの、全部だった。四十六人を、そうやって、送った」
「……はい」
「明日、しくじれば、君は、四十七人目に、なる」
彼の声は、いつもの、断定の調子だった。けれど、その断定が、微かに、震えていた。
「そうしたら、私は、また、覚えているだけの男に、戻る。君を、覚えて。君の、好きになった花を、覚えて。君が、名前を呼ばれて、泣いた顔を、覚えて。……それだけを、抱えて、次の三百年を、生きる」
彼は、私を、見た。
「三百年で、初めて、怖いと、思った」
言葉を、切った。
「君を——忘れる側に、なることが」
私は、息を、止めた。
「忘れない、と、言っているのに。矛盾している。分かっている。だが、これは、そういう意味だ。私が、いくら覚えていても、世界が、君を、忘れきってしまえば。私の記憶は、ただの——独りの、墓標に、なる。私は、君を、覚えたまま、君を、失う側に、立つ。……それが、怖い。三百年、何も怖くなかった私が」
燭台の火が、ぱち、と、爆ぜた。
私は、扉の境を、越えて、一歩、彼に、近づいた。
「アルヴェインさま」
「なんだ」
「それは——たぶん、私が、あなたに、言うべき言葉と、同じです」
私は、腕輪の、六つ目の石を、そっと、押さえた。明滅している、母の石を。
「私も、怖い。あなたに、覚えられたまま、消えるのが。あなたの記憶の中で、墓標に、なるのが。……だから、明日、勝ちましょう。あなたが、覚えているだけの人に、戻らなくて、いいように。私が、あなたの、隣に、居続けられるように」
彼は、しばらく、何も、言わなかった。
それから、燭台を、廊下の卓に、置いた。両手を、空けるように。
彼の手が、私の頬に、触れた。手袋を、していなかった。書庫でしか、素手にならない、あの人の、素手だった。指先が、少し、冷たくて、そして、微かに、震えていた。
「エステル」
「はい」
「一つ、数え間違いを、していた」
彼の顔が、近づいた。
「四十一日、待った、と言った。報せが、届いてから。……違う。私は、たぶん、三百年、待っていた。君のような人を。覚えていたい、と、思える、たった一人を」
そして、彼は、口づけた。
短い、口づけだった。饒舌でも、なんでもない。ただ、確かめるような。記録に、刻むような。一画も、違えない、あの人の、正確な手つきで。
離れたあと、彼は、また、いつもの、無愛想な顔に、戻っていた。けれど、その目だけが、燭台の火より、ずっと、温かかった。
「六時に、起こす。……今度は、ちゃんと、眠れ」
「はい」
「おやすみ、エステル」
「おやすみなさい。アルヴェインさま」
扉が、閉まった。
私は、頬に、まだ残る、指先の冷たさと、口づけの、温かさを、両手で、包んだ。
この人は、口下手だ。心の話になると、いつも、数字の後ろに、隠れる。四半刻。九百秒。三百年と、四十一日。……けれど、私は、もう、知っている。その数字の一つ一つが、この人の、言葉なのだ。愛している、と、言う代わりに、この人は、日数を、数える。忘れない、と、証すために。
だから、私も、覚えておこうと思った。今夜のことを。素手の指先の、冷たさも。短い口づけの、温かさも。一画も、違えずに。この人が、私を、覚えてくれるように、私も、この人を、覚えていよう。たとえ、明日、何が、あっても。
窓の外で、王都の空は、まだ、暗かった。
けれど、その暗さの、向こうに、朝が、来る。
審問の、朝が。
お読みいただきありがとうございます。
数字でしか、語れない人が、初めて、怖い、と言いました。
「君を、忘れる側に、なることが」——覚えているだけの男に、戻ることが。
前夜、二人は、口づけを、交わしました。短く、確かめるように。
次回、第49話「大審理室」。
夜が明けます。王宮法務院、大審理室。三百年分の帳面が、運び込まれます。
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蒼空ルーシェ




