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第46話 エの字の箱

 箱は、翌朝、鐘つき亭に、届いた。


 届けたのは、静修院の、若い下働きの娘だった。門の外で、荷を置くと、逃げるように、去っていった。教会の施設の者が、私たちに、荷を渡した——それが、知れると、まずいのだろう。


 木箱を、宿の卓に、上げた。蓋を、開けた。


 紙だった。


 昨日、母の部屋を、埋めていた、あの紙。書き損じの「エ」が、詰まっていた。


「……院は、これを、ただの、反故と、思っている」


 アルヴェインさまが、箱を、覗き込んで、言った。


「毎朝、掃除で、掻き集めて、捨てる。捨てるはずの紙を、昨日、私が、デルブリュック医師に、頼んだ。『捨てるなら、こちらへ』と。……向こうは、妙な顔を、していた。狂った女の、落書きを、なぜ欲しがる、と」


 私は、一枚を、手に取った。


 震えた線の「エ」。次の紙も、「エ」。その次も。「エス」で、力尽きた紙。「エステ」まで、行けた紙。


 どの一枚にも、日付は、ない。母は、もう、今日が何日かも、分からない。


 けれど、順番は、あった。インクの、褪せ方で、分かる。古い紙ほど、線が、しっかりしている。新しい紙ほど、線が、細く、頼りない。


 忘れていく順に、母の字は、痩せていた。


 それでも、一枚も、白紙は、なかった。



   ◇



 私は、旅の鞄から、油紙の包みを、取り出した。


 中には、もう一束の「エ」が、あった。塔を発つとき、アルヴェインさまが、両手で、返してくれたもの。第一の証拠。母が、生家で、最後に書いた「エ」の字たち。


「写しは、取ってある。原本は、いつか、母に見せると、君は、言った」


 あの日、彼は、そう言って、返してくれた。


 私は、二つの束を、卓の上で、そっと、並べた。


 生家で書かれた「エ」。静修院で書かれた「エ」。半年の、隔たり。塀と、鍵と、忘却を、隔てて。


 同じ手が、同じ名を、書こうとし続けていた。


「アルヴェインさま」


「なんだ」


「私、この箱を、審問に、出します」


 言ってから、自分の声が、震えていないことに、驚いた。


「昨日まで、これは、私の、宝物でした。母が、私を、忘れまいとしてくれた、証。……私だけの、温かいもの。誰にも、渡したくない、ものでした」


「ああ」


「でも、昨日、母の手が、書くのを、見て。分かったんです。これは、私だけのものにして、抱いていては、いけない。——母は、独りで、闘っていました。塀の中で、名前も分からないまま、それでも、書くのを、やめなかった。なら、私が、その紙を、王国で一番、声の届く場所に、持っていかないと。母の三百枚を、公の記録に、しないと」


 私は、蓋に、手を、置いた。


「情を、証拠に、します。……母が、それを、恥じないように」


 アルヴェインさまは、しばらく、箱を、見ていた。


 それから、いつもの、正確な声で、言った。


「一枚も、なくさない。番号を、振る。生家の束が、四十一枚。この箱が——」


 彼は、指で、素早く、数えた。本当に、数えていた。


「三百七枚。合わせて、三百四十八枚。三百四十八の、否だ」


「三百四十八……」


「教会の台帳には、母君の記述は、一行しか、ない。『メルローゼ夫人、静養。署名不能』。——その一行に、三百四十八枚を、ぶつける」


 彼は、油紙と、木箱を、モリスさんの帳面と同じ手つきで、卓の中央に、寄せた。


「署名不能、ではない。署名拒否だ。そして、これは、その拒否が、たった一度の、気まぐれでなかったことの、証だ。母君は、拒み続けた。半年、毎晩。……記録は、忘れない。母君の手も、忘れなかった。ならば、我々が、忘れさせない」



   ◇



 その夜、私は、宿の窓辺で、一枚の紙に、番号を、振っていった。


 一枚ずつ、めくって、右下に、小さく、数字を、書いていく。


 二百三十一。二百三十二。二百三十三。


 めくるたびに、母の夜が、見えた。ペンを握って、糸杉の窓辺で、たった一人、名前を、書こうとしていた、母の、たくさんの夜が。


 古い紙ほど、線は、しっかりしていた。「エステ」まで、行けた紙も、あった。けれど、新しい紙に、なるほど、線は、痩せていった。「エ」の、二画目が、震えて、途切れる。三画目に、届かない。忘れていく速さが、そのまま、インクの、細さに、なっていた。


 それでも、母は、書くのを、やめなかった。手が、名前を、忘れかけても。頭が、宛先を、忘れきっても。


 一枚も、白紙は、なかった。それが、答えだった。母は、最後の一枚まで、抗った。負けそうな夜も、負けなかった夜も、必ず、ペンを、握った。


 どうして、書くの、と、母は、言っていた。書かないと、その方が、いなくなってしまう気が、して、と。


 母は、知らないのだ。その「エ」の方が、自分の娘だと。目の前に、来ていたことも。


 それでも、書いた。


 私は、三百四十八枚目に、番号を、振り終えて、箱の蓋を、閉じた。


 窓の外で、王都の空が、白み始めていた。


 審問は、明後日。

お読みいただきありがとうございます。


母の書き溜めた「エ」は、三百七枚。生家の束と合わせて、三百四十八枚。

「情を、証拠にします。母が、それを、恥じないように」

エステルは、自分だけの宝物を、公の記録にする、と決めました。


次回、第47話「塔からの手紙」。

塔の家族から、便りが届きます。テオの、あのお守りも。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

三百四十八枚に振られた、小さな番号に、☆ひとつ、お力添えを。


蒼空ルーシェ

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