第45話 初めまして
静修院は、王都の外れの、糸杉の丘に、あった。
白い塀が、長く続いていた。門で、教会医師団の、デルブリュック医師が、待っていた。
「面会は、四半刻。付き添いは、一人まで。それが、こちらの、決まりです」
法務院を通して、ようやく取りつけた、たった一度の面会だった。ザイフェルト卿が、原本の綴りを見て沈黙した、あの夜の、たった一つの、成果。
門の手前で、アルヴェインさまが、足を、止めた。
「私は、ここで待つ」
「はい」
「これは、君の時間だ。四半刻。九百秒ある。……足りないだろうが、一秒も、無駄にするな」
「はい」
「エステル」
「はい」
彼は、私の腕輪を、一度、見た。それから、私を、見た。
「もし、お母上が、君を、思い出さなくても。それは、お母上が、君を、捨てたのではない。呪いが、奪っただけだ。——部屋を出るとき、もう一度、思い出せるように、今、言っておく」
私は、頷いた。ちゃんと、頷けた、と思う。
◇
母の部屋は、糸杉の見える、明るい部屋だった。
そして、紙で、埋まっていた。
机の上に。窓辺に。床にも。書き損じの紙が、幾重にも、重なっていた。一枚ずつ、拾わなくても、分かった。どの紙にも、同じ字が、書いてある。
「エ」。
「エ」。
「エス」。
何百枚と、あった。震えた線の「エ」が、部屋いっぱいに、積もっていた。まるで、降り止まない雪のように。
窓辺の椅子に、母が、いた。
膝に紙を乗せて、ペンを、握っていた。私の足音に、顔を上げて——そして、ふわりと、微笑んだ。
「まあ……。お客さま。珍しいこと」
その顔を、私は、知っていた。
あの朝、生家の食卓で、私に向けられた顔。「初めて会う人」を見る、丁寧で、優しくて、遠い、他人の顔。
胸の奥が、静かに、軋んだ。けれど、私は、微笑み返した。ここへ、泣きに来たのではない。
「こんにちは。……お邪魔を、しても、よろしいですか」
「ええ、ええ。どうぞ。……散らかっていて、ごめんなさいね」
母は、膝の紙を、少し、恥ずかしそうに、隠した。
「わたくし、毎晩、お名前を、書いているの。どなたのお名前かは、もう、分からないのだけれど」
「……お名前を」
「そう。書かないと、いけない気が、して。書かないでいると、その方が——どこかの、大事な方が、本当に、いなくなってしまう気が、するの。おかしいでしょう。名前も、思い出せないのに」
母は、窓の外の、糸杉を、見た。
「でも、この『エ』の方は、きっと、とても、大切な方。だって、書いていると、胸のここが、温かくなるんですもの。お会いしたら、きっと、分かる。——毎晩、そう思って、書いているの」
私は、椅子の傍に、膝をついた。
九百秒。もう、いくつか、過ぎている。
「あなたの、お名前は?」
母が、私を、見た。少女のように、無邪気に。
私は、息を、吸った。
「……エステル、です」
母の手が、止まった。
それから、ゆっくりと、新しい紙に、ペンを、下ろした。
「エ」。
いつもの「エ」。けれど、そこで、止まらなかった。
「エス」。「エステ」。「エステル」。
初めて、最後まで、書けた。
母は、書き上げた四文字を、じっと、見つめた。不思議そうに、首を、傾げた。
「まあ……。書けた。ずっと、途中で、消えてしまっていたのに。あなたのお名前は、書けるのね。エステル、さん」
そして——ペンが、ひとりでに、続きを、綴った。
「エステル・メルローゼ」。
母の手が、書いた。母の頭が、追いつく前に。
書き終えてから、母は、その姓を、驚いたように、見た。
「あら。……どうして、わたくし、この方の下に、うちの、家の名を、書いたのかしら。存じ上げない方、なのに」
私は、答えられなかった。
答える代わりに、床に、落ちた涙を、母に見られないように、そっと、拭った。
頭は、忘れている。呪いに、全部、奪われている。
それでも、手が、覚えていた。この手は、毎晩、この名前を、書こうとして、書き損じて、それでも、諦めなかった。何百枚もの「エ」は、裏切りの紙では、なかった。
抵抗の、跡だった。
三百枚の、否だった。
◇
四半刻が、終わろうとしていた。
立ち上がった私の腕で、腕輪が、揺れた。七つの石の腕輪が。
母の目が、その腕輪に、留まった。
「それ……」
母の指が、宙で、迷った。
「それ、どこかで……見た気が。とても、古い、大切な——たしか、女の子に、渡すもので。母から、娘へ、渡す——」
母の顔が、ふ、と、明るくなりかけた。
次の瞬間、その光が、掌から零れる水のように、消えた。
「……いいえ。ごめんなさい。忘れて、しまいました。——なんの、話でしたかしら」
私は、その腕輪を、そっと、袖で、隠した。
「なんでも、ありません。……素敵な、腕輪ですね、と、申し上げただけです」
「そう。ふふ。あなた、優しい方ね」
母は、また、机に向き直った。ペンを、握り直した。書きかけの「エ」の上に、次の「エ」を、重ねようとして。
私は、扉の前で、振り返った。
「あの」
「はい?」
「今夜も、書いてくださいね。……その、エステル、というお名前。最後まで」
「ええ。書きますとも」
母は、微笑んで、頷いた。
「だって、その方は、きっと、いつか——わたくしに、会いに来てくださるもの」
私は、深く、頭を、下げた。
もう、来ています、とは、言えなかった。言えば、この四半刻が、崩れてしまう気がした。
だから、代わりに、言った。
「はい。きっと、会いに、来られます。……初めまして、の顔で」
扉を、閉めた。
廊下の壁に、背を、預けて、私は、ようやく、少しだけ、泣いた。声を、立てずに。
母は、忘れていた。私を、丸ごと。
それでも、母の手は、三百枚の紙の上で、ずっと、私を、呼び続けていた。
お読みいただきありがとうございます。
初めまして、と、母は、微笑みました。呪いに、娘を、忘れきって。
それでも、母の手は、覚えていました。「エステル」という名を、最後まで。
腕輪に、指を、伸ばしかけて——その光も、また、消えました。
次回、第46話「エの字の箱」。
母の書き溜めた、三百枚の「エ」を、受け取りに参ります。
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蒼空ルーシェ




