↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
45/66

第44話 母の署名の話

 審問まで、あと、十八日。


 母の石が、消えてしまう前に。エステルは、動くと、決めた。


 その朝、彼女は、革の鞄から、一綴りの、書類を、取り出した。


 抹消願の、原本綴り。ヴィオラさんが、書庫の火事から、真っ先に、救い出したものの一つだった。塔で、一度は却下させた、あの、記録抹消願。娘の戸籍を、この世から、消すための、紙。


 その、末尾の頁を、エステルは、開いた。


 署名の欄が、あった。


 ゲルハルト・メルローゼ。父の、署名。


 聖女ロゼリア。妹の、署名。


 そして、三人目の欄——母の、署名の、欄。


 そこは、空白だった。


 ただの、空白では、なかった。よく見ると、その空欄の、余白に、幾つも、薄い、痕があった。ペンを、置きかけて、離した跡。書きかけて、掠れた線。『ユ』の字の、書き損じ。『メ』の、書きかけ。……何度も、署名を、しようとして、できなかった、母の、手の、痕跡。


 母は、署名を、しなかった。


 父が署名し、妹が署名した、その紙に。母だけが、最後まで、名を、書かなかった。


「これを、提出します」


 エステルは、言った。


「法務院に。ザイフェルト卿に、直接」



   ◇



 王宮法務院、院長の執務室。


 法務院長ザイフェルト卿は、白髪を、きちんと撫でつけた、初老の人だった。中立を、絵に描いたような人、と、ヴィオラさんは、言っていた。教会にも、貴族にも、傾かない。ただ、法と、記録だけを、見る人だと。


 その人が、今、抹消願の原本を、手に、していた。


 エステルは、説明した。この抹消願が、いかに、正規の手続きを、欠いていたか。承認欄に、提出日より二十日も前の、大司教の署名があったこと。そして——


「最後の頁を、ご覧ください」


 ザイフェルト卿が、頁を、めくった。


「署名欄です。三人目の、母の欄が、空白です。……ですが、空白の、余白を、見てください」


 卿の、老いた目が、細められた。空欄の余白の、薄い痕を、追った。書きかけては、離れた、ペンの跡を。


「母は、署名を、しませんでした」


 エステルは、言った。


「家族全員の署名が、揃わなければ、抹消願は、成立しません。父は、書きました。妹も、書きました。……母だけが、書かなかった。書こうとして、何度も、ペンを、置きかけて、そのたびに、手が、止まった。この、余白の痕が、その証です」


 執務室が、静かになった。


 ザイフェルト卿は、頁から、目を、上げなかった。長い、沈黙だった。


 彼は、記録を、読む人だった。三十年、この法務院で、無数の書類を、見てきた。署名の、あるものも。ないものも。……けれど、空欄の、余白に残った、書き損じの痕を、これほど長く、見つめたことは、なかったのかもしれない。


「……娘御の、名は」


 卿が、口を、開いた。


「その、空欄に、書かれるはずだった、署名の、隣に。抹消される、はずだった、娘御の名は。何と、いう」


「エステル、です」


 彼女は、言った。フルネームを、名乗ろうとして、やめた。この人には、まず、名前を、一つ。


「エステルと、申します」


 ザイフェルト卿は、原本を、静かに、閉じた。そして、しばらく、何も、言わなかった。


 その沈黙が、答えだ、と、エステルは、思った。中立の人の、天秤が。ほんの、わずかに、傾いた音を、聞いた気が、した。



   ◇



 執務室を、辞す前に、エステルは、もう一つ、願い出た。


「母に、会わせて、いただけませんか」


「静修院の、ユリアーナ殿か」


「はい。……面会は、ずっと、断られています。副司教さまが、握って、離しません。ですが、この抹消願を、審問で使うのなら。書いた本人——いえ、書かなかった本人の、確認が、要るはずです。法の、手続きとして」


 ザイフェルト卿は、少し、考えた。それから、机の、呼び鈴を、鳴らした。


「……法務院長の、職権で。審問の、前夜。一度だけ。立会人を、付けて、面会を、許可する。それ以上は、できぬ。教会の管轄だ」


「充分です」


 エステルは、深く、頭を、下げた。


「ありがとう、ございます」



   ◇



 法務院を、出た。


 冬の終わりの、王都の空は、高く、晴れていた。


 審問の、前夜。一度だけ。


 母に、会える。


 母は、娘を、忘れている。会っても、「初めまして」に、なるだろう。それでも——会える。書きかけて、書けなかった、あの、署名の欄の、母に。


 エステルは、右の手首の、六つ目の石を、見た。


 弱い光で、まだ、点いていた。翳りながら。それでも、消えずに。


 間に、合わせます、と、心の中で、言った。石にも。母にも。



 ——消えた星の光は、それでも、届いています。


 一度も読まれなかった、名前の上にも。

お読みいただきありがとうございます。


母は、署名を、しませんでした。

父と妹が名を書いた抹消願に、母だけが、書かなかった。

空欄の余白に残った、書き損じの痕が、その証でした。

ザイフェルト卿は、それを、長く、見つめて、沈黙しました。


そして、審問の前夜。一度だけ、母との面会が、許されます。


次回、第45話「初めまして」。

娘を忘れた母と、エステルの、初めての対面です。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

署名を拒んでくれた、母の空欄に、☆ひとつ、お力添えを。


蒼空ルーシェ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。