第43話 覚えている限り
その夜、アルヴェインは、眠らなかった。
三百年、彼は、あまり、眠らない。眠っている間も、記憶は、消えない。夢さえ、覚えている。三百年前の夢も、昨夜の夢も、同じ鮮明さで、彼の中に、積もっている。
鐘つき亭の、狭い部屋。窓辺に、椅子を寄せて、彼は、革の筒を、膝に載せていた。
中の紙は、見なくても、諳んじられた。四十七の名。四十七の日付。それだけでは、ない。彼は、その一人ひとりの、顔を、覚えていた。
リディア。栗色の髪の娘だった。塔に来て、四十日で、消えた。最後に、窓の外の、雪を、見たがった。
マルゴット。歌が、上手かった。子守唄を、逆さから歌う癖が、あった。
テレジア。エルゼ。ヨハンナ。……アンネリーゼ。
一人ずつ、彼は、看取った。三百年、ただ一人で。名を記し、好きだった花を記し、最後の言葉を記し、そして、土に、還した。
誰も、覚えていなかった。彼だけが、覚えていた。
忘れられないとは、こういうことだ、と、彼は、思う。喪失が、薄れない。四十七回の別れが、四十七回とも、昨日のことのように、痛む。時が、傷を、癒さない。三百年経っても、リディアが雪を見たがった顔は、昨日、見たままだ。
「……眠れませんか」
声がした。
エステルが、戸口に、立っていた。肩に、掛け布を、羽織って。
「起こして、しまいましたか」アルヴェインは、言った。「すまない。……考えごとを、していた」
「いいえ」
エステルは、彼の向かいの、椅子に、腰を下ろした。
「わたしも、眠れなくて。……母の石が、気になって」
二人は、しばらく、黙っていた。窓の外で、王都の、遅い鐘が、一つ、鳴った。
「アルヴェインさま」
「ああ」
「今、どなたのことを、考えて、いらしたんですか」
アルヴェインは、革の筒に、手を、置いた。
「四十七人だ。……この中の、一人ずつを。順に。名前と、顔と、最後の言葉を」
「全員、覚えて、いらっしゃるんですね」
「覚えている。忘れられない。……それが、私の、仕事だから」
エステルは、彼を、見た。じっと。
彼女の目が、いつもと、違うことに、アルヴェインは、気づいた。労わりでも、感嘆でも、なかった。もっと、まっすぐな、何かだった。
「アルヴェインさま」
「ああ」
「三百年、あなたは、みんなを、覚えてきました。四十七人を、一人ずつ。誰にも、覚えられなかった娘たちを。……ずっと、あなたが、覚える側でしたね」
「そうだな」
「なら」
エステルは、少し、身を、乗り出した。
「あなたのことは、誰が、覚えるんですか」
アルヴェインは、答えられなかった。
そんなことを、訊かれたのは、三百年で、初めてだった。彼は、覚える者だった。看取る者だった。記録する者だった。覚えられる側に、回ることを、考えたことが——なかった。
「私は」彼は、言った。言葉が、うまく、出てこなかった。「私は、いい。番人だ。塔そのものが、番人の……」
「よく、ありません」
エステルは、遮った。丁寧語のまま。けれど、その声は、静かに、強かった。
「あなたも、忘れられていい人では、ありません」
窓の外の、鐘の余韻が、消えた。
部屋が、静かだった。
「あなたは、四十七人を、覚えました。三百年、一人で。……その、あなたを、覚える人が、一人も、いないなんて。そんなの、おかしいです。間違って、います」
間違っている、と、彼女は、言った。彼が、いつも、使う言葉で。
「わたしが、覚えます」
エステルは、言った。
「あなたの、数える癖も。手袋を、外すときと、外さないときの、違いも。菓子の数まで数えるのに、自分の誕生日だけは、忘れたと言い張ることも。……全部、覚えます。あなたが、四十七人を覚えたように。わたしが、あなたを」
アルヴェインは、しばらく、動けなかった。
三百年、彼は、光を、灯す側だった。窓辺に、灯りを。記録に、名を。誰かの存在を、この世に、繋ぎ止める側。
その彼の、窓辺に。
今、一つ、灯りが、点いたようだった。誰かが、彼を、覚えると、言った。
うまく、言葉にならなかった。彼は、数字と、行動でしか、ものを言えない男だった。だから、ただ、頷いた。一度だけ。深く。
それが、彼にできる、精一杯の、返事だった。
◇
エステルが、自分の部屋に、戻ったあと。
アルヴェインは、もう一度、腕輪のことを、思った。彼女の、右手首の、六つ目の石。母の石。
あれは、今夜、また、少し、弱くなっていた。明滅の、間隔が、開いていた。翳っている時間が、点いている時間より、長く、なっていた。
時が、ない。
彼は、窓の外の、王都の闇を、見た。
その、闇の、どこかに。静修院が、あった。娘を忘れた母が、それでも毎晩、誰かの名を、書いている場所が。
お読みいただきありがとうございます。
眠れない夜。アルヴェインさまは、四十七人を、一人ずつ、思い返していました。
三百年、覚える側だった男。誰にも、覚えられなかった男。
「あなたも、忘れられていい人ではありません」——エステルは、言いました。
「わたしが、覚えます」と。
母の石は、また少し、弱くなっていきます。
次回、第44話「母の署名の話」。
拒まれた署名の、原本を、法務院に、提出します。
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誰にも覚えられなかった、覚える人に、☆ひとつ、お力添えを。
蒼空ルーシェ




