第42話 燃える書庫
火の手が上がったのは、その夜の、丑三つ時だった。
鐘つき亭で眠っていたエステルを、叩き起こしたのは、アルヴェインさまだった。
「起きろ。……記録庁の方角だ。火が、出ている」
窓を、開けた。冷えた夜気が、頬を、刺した。夜空の一角が、赤かった。星より、低い場所で、赤い光が、揺れていた。風に乗って、焦げた匂いが、かすかに、届いた。
二人は、外套も羽織らずに、走った。息が、白く、千切れた。走るほどに、匂いは濃くなり、遠くで、何かの爆ぜる音が、聞こえ始めた。
◇
第三書庫は、燃えていた。
石造りの建物の、窓という窓から、赤い舌が、噴き出していた。近づくだけで、頬が、炙られ、熱風が、髪を、後ろへ、押した。人が、集まっていた。桶の水を、手渡しで運ぶ列が、できていた。けれど、火の勢いに、追いついていなかった。水が炎に触れるたび、白い湯気が、上がって、すぐに、掻き消えた。
「ヴィオラさん!」
エステルは、人垣を、掻き分けた。煙が、目に沁みた。喉の奥が、灼けた。
いた。書庫の入り口の、煤で真っ黒になった石段に、ヴィオラさんが、座り込んでいた。咳き込みながら、胸に、革の筒と、何冊もの帳面を、抱えていた。抱えた腕は、震えていて、それでも、緩まなかった。
「エステル、さま……」
声が、掠れていた。
「間に、合いました。……正本と、写しと。四十七件の、突合の紙。それから、モリスさんの帳面の、大事なところ。……全部、出しました。私、火が回る前に、気づいたので」
「無茶を! あなたが、燃えたら、どうするんですか!」
エステルは、その手を、取った。指先が、煤と、灰と、火傷で、ざらついていた。何度、燃える棚へ、手を伸ばしたのだろう。
「でも」ヴィオラさんは、煤の顔で、笑った。「記録が、燃えたら、もっと、困ります。……私は、書記官、ですから」
アルヴェインさまが、彼女の腕から、帳面を、受け取った。数を、確かめるように、一冊ずつ。唇が、声にならない数を、刻んでいた。一冊も、取りこぼさない、というふうに。
「……失火では、ないな」
彼は、燃える書庫を、見上げた。炎が、彼の目の中で、二つ、揺れていた。
「火元が、書庫の奥だ。灯りも、暖炉もない、ただ紙の積まれた場所から、火が出た。ひとりでに、燃える紙は、ない。……誰かが、火を、放った」
エステルは、赤い炎に、照らされた、彼の横顔を、見た。
怒っていた。声は、静かなのに。彼の怒りは、いつも、静かだった。数字が、正確になるほど、静かになった。今、それは、氷のように、平らだった。
「昨日の、今日だ」彼は、言った。「四十七件の紙が、揃った。その、翌る夜に、書庫が、燃えた。……向こうは、あの紙を、灰にしたかった。この街から、記録を、消したかった」
◇
夜が、明けた。
書庫は、半分が、焼け落ちていた。焦げた紙の匂いが、冷えた朝の空気に、まだ、残っていた。梁の一つが、白い灰を、被ったまま、細く、煙を、上げていた。
ヴィオラさんは、無事だった。煙を、たっぷり吸って、咳は、していたけれど。救い出した帳面と、革の筒を、膝に抱えたまま、石段に、座っていた。夜通し、そこを、動かなかったのだと、分かった。
「悔しくは、ありません」
彼女は、ぽつりと、言った。
「悔しいけど。……無駄には、なりませんでした。だって、燃えたのは、この書庫の分だけ、です。四十七件の突合は、写しを、もう一部、私の家に、置いてあります。モリスさんの帳面は、大事なところは、塔にも、原本が、あります。ここで燃えたのは、王都に持ってきた、写しの、また写し。……焼いても、焼いても、また、出てくるんです」
「モリスさんの、口癖ですね」
エステルは、言った。
「——書き留めて、おきましょう。写しは、ここに。原本は、あちらに」
言いながら、エステルの胸に、ひとつの理解が、灯った。焼かれても、盗まれても、消えない形。それは、一冊の頑丈さではなく、同じ言葉が、いくつもの場所に、散っていることだった。火は、一箇所しか、焼けない。
「そう、です」ヴィオラさんが、頷いた。「一箇所に、まとめて、置かない。あちこちに、写しを、散らしておく。……モリスさんは、たぶん、三百年、こうやって、記録を、守ってきたんです。燃やされても、盗まれても、消えない形に、しておく。私、今日、それが、分かりました」
アルヴェインさまが、焼け落ちた書庫を、見ていた。灰の中に、黒く反り返った紙が、いくつも、散っていた。彼は、それを、目で、数えているようだった。
「記憶は、燃えない」
彼は、言った。誰にともなく。
「紙は、燃える。建物も、燃える。……だが、一度、覚えたものは、燃えない。私は、あの帳面の、四十七の名を、全部、覚えている。この書庫が、全部、灰になっていても、私が、書き直せた。一字一句、違えずに」
彼は、エステルを、見た。その目に、もう、炎は、映っていなかった。ただ、静かな、揺るがない光が、あった。
「向こうは、火をつける相手を、間違えた。……忘れない男の、目の前で、記録を、燃やそうとした」
エステルは、頷いた。
そのとき、右の手首が、冷たくなった。
六つ目の石——母の石が、翳っていた。ゆっくりと、点いては、翳り。
明滅が、始まっていた。
エステルは、息を、詰めた。母の石が、揺れ始めた。父の石が、消えた、その、二日後に。
審問まで、あと、二十日あまり。
その前に、母に、会わなければ。石が、消えて、しまう前に。
お読みいただきありがとうございます。
その夜、第三書庫が燃えました。失火ではなく、放火でした。
けれど、ヴィオラさんが、正本も写しも、四十七件の紙も、守り抜きました。
写しは、あちこちに、散らしてある。焼いても、また出てくる。
「記憶は、燃えない」——アルヴェインさまは、静かに、言いました。
そして、六つ目の石。母の石が、揺れ始めます。
次回、第43話「覚えている限り」。
四十七人を、一人ずつ覚えている男の、重みの話です。
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蒼空ルーシェ




