第39話 副司教の取引
副司教ロタールからの遣いは、翌日の昼に、来た。
法務院の一室で、話がしたい、と。丁重な文面だった。丁重すぎるほど、だった。
「行くか」
アルヴェインさまが、訊いた。
「行きます。……何を仰りたいのか、聞いておきます。それも、記録の一つですから」
「同席する」
彼は、手袋を、はめ直した。
◇
法務院の、日当たりのいい小部屋だった。長椅子には、柔らかな織りの掛け布。卓には、湯気の立つ茶。副司教ロタールは、両手を膝の上で組んで、微笑んでいた。
「よく、おいでくださいました。メルローゼの、お嬢さん」
その呼び方に、エステルは、気づいた。彼は、「献星どの」とは、呼ばなかった。「エステルさま」とも。ただ、「お嬢さん」と。名前を、避けている。
「番人どのも。……どうぞ、おかけを。堅い話では、ありません。むしろ、その、逆で」
「立って、聞きます」
アルヴェインさまが、言った。ロタールの微笑みが、ほんの少し、こわばった。
「では、手短に。……お嬢さんは、静修院の、お母上のことを、案じておいででしょう」
エステルは、答えなかった。
「ユリアーナさまは、長く、静養なさっている。お体が、あまり、よろしくない。……あのような場所に、長く置くのは、忍びない。私どもも、そう、思っているのですよ」
彼は、茶を、一口、含んだ。
「もし。……特許状の再審を、取り下げていただけるなら。塔が、献星を、教会にお返しくださるなら。お母上の身柄は、明日にでも、ご実家へ、お戻しできます。手続きは、私が、いたします。……悪い話では、ないでしょう? 母子ともに、丸く、収まる」
小部屋が、静かになった。
卓の茶が、湯気を、立てていた。
エステルは、その湯気を、しばらく、見ていた。それから、ゆっくりと、顔を上げた。
「——そうですか」
声は、丁寧なままだった。ただ、温度が、一段、下がっていた。
「母を、人質に、なさるのですね」
ロタールの微笑みが、止まった。
「人質、とは。……異なことを。私は、母子の情に——」
「副司教さま」
エステルは、遮った。敬語のまま、静かに。
「今、仰いましたね。母の身柄は、明日にでも、実家に戻せる、と。つまり、明日にでも戻せるものを、今日まで、戻していない、ということです。母は、体が悪いのではありません。戻せるのに、戻されていない。それを、人質と、言うのだと、思います」
「……」
「わたしが、審問を取り下げれば、戻す。取り下げなければ、戻さない。母の居場所を、交渉の札に、なさっている。……ええ。よく、分かりました」
彼女は、一度、目を伏せた。そして、また、上げた。
「お断りします」
「お嬢さん」ロタールの声から、甘さが、消えた。「よく、お考えなさい。あなたは、日に日に、忘れられていく。刻限が、あるとも聞く。母上と過ごせる時間は、そう、長くない。……その、残り少ない時間を、母上と、実家で。私は、それを、差し上げると言っているのですよ」
「いいえ」
エステルは、首を、振った。
「その残り少ない時間を、母が、実家で、わたしを『知らない娘』として過ごすのなら。それは、一緒にいるとは、言いません。……わたしは、母に、覚えてもらいに来たんです。忘れたまま、隣にいてもらうために、来たのでは、ありません」
彼女は、立ったまま、頭を、下げた。
「お茶を、ありがとうございました。いただかずに、失礼します」
◇
宿——鐘つき亭に、戻ったのは、日が落ちてからだった。
主人は、今夜も、エステルの顔を、覚えていなかった。「初めての、お客さんですね」と、宿帳を、開く。アルヴェインさまが、いつものように、自分の手で、記帳した。私たちは、昨夜も、ここに泊まった、と。
部屋に入って、上着を脱いだとき。
エステルは、右の手首の、腕輪に、気づいた。
五つ目の石が——家門の石が、揺れていた。
弱い光で、点いては、翳り、点いては、翳り。明滅、していた。
「アルヴェインさま」
彼が、腕輪を、覗き込んだ。しばらく、石の明滅を、数えるように、見ていた。
「五つ目だ。……揺れ始めている。今日まで、点いていた。今日から、揺れている」
「これは……」
「石が揺れるのは、その円の誰かに、変化があったときだ」彼は、窓の外の、王都の灯りを、見た。「五つ目は、家門。父と、妹。……このどちらかが、動いた。この街に、近づいた」
エステルは、腕輪を、握った。
石の明滅は、心臓の鼓動より、少し、速かった。
お読みいただきありがとうございます。
副司教ロタールが、甘い声で、取引を持ちかけました。
審問を取り下げれば、母を解放する——つまり、母は、人質でした。
エステルは、敬語のまま、静かに、断りました。
その夜。五つ目の石が、揺れ始めます。家門の、石が。
次回、第40話「父の証言」。
父が、王都に、来ています。
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蒼空ルーシェ




