第38話 四十七の帳面
王都の朝は、塔の朝と、まるで違っていた。
鐘で、始まる。あちらの鐘、こちらの鐘。数えきれない鐘楼が、揃わない調子で鳴って、それが、この街の目覚めだった。塔の朝には、風の音しか、なかった。
エステルは、記録庁の第三書庫の、一番奥の机で、その鐘を聞いていた。ヴィオラさんが、上役に幾つも頭を下げて、確保してくれた一角だった。細長い窓から、埃を照らす光が、一筋、差している。
机の上には、塔から運んできた帳面が、積まれていた。同じ装丁の、古い革表紙。何十冊もの。
「今日で、五日だ」
向かいで、アルヴェインさまが、言った。
「王都に着いて、五日。審理まで、あと、二十六日。……この帳面を、審問で使える形に並べ直すのに、何日、いる」
「三日、いただければ」
エステルは、頁をめくる手を止めずに、答えた。
「年ごとに、分けます。古いものから、新しいものへ。……そうすれば、どなたが、いつ、静修院で消えたのか、ひと目で分かるように、できます」
「頼む」
彼は、それだけ言って、また、自分の手元の一冊に、目を落とした。
塔から運んできたのは、三百年分の記録だった。モリスさんと、その先代と、さらに先代が——代々の書き手が、一人ずつ、書き継いできた。教会が「献星」と呼び、静修院へ送り、そして忘れさせた、娘たちの記録。
教会の帳簿では、その一人ひとりが、たった一行だ。
『献星、消失。制度は正常に機能せり』
けれど、モリスさんの帳面では、違った。
名前があり、齢があり、好きだった花があり、口ずさんだ歌の癖があり、そして——最後の言葉が、あった。一人につき、何頁も。
エステルは、一冊、また一冊と、年代の札を挟んでいった。
◇
昼を過ぎた頃、三十年前の綴りで、指が、止まった。
一つの名の頁だった。
『アンネリーゼ。愛称、アンネ。十六。』
エステルは、その頁を、読んだ。
『好きなもの——星のかたちの、焼き菓子。母の焼くもの。ほかの菓子は、いらないと言う。』
息が、浅くなった。
『歌の癖——鍋をかき混ぜながら、低い声で、子守唄を。母から、習ったのだと。』
『最後の言葉——「おかあさんの、お菓子が、たべたい」。』
エステルの手が、頁の上で、止まったまま、動かなくなった。
星のかたちの、焼き菓子。母の焼くもの。
——毎朝、塔の台所で、ハンナさんが焼いていた、あの菓子。
旅の荷にも、堅焼きにして、詰めてくれた。「娘の好物を、王都中に、自慢してやるんです」と、笑って。
「アルヴェインさま」
声が、掠れた。
「アンネさん、というかたは。……ハンナさんの、娘さん、ですか」
アルヴェインさまが、顔を上げた。そして、少しの間、黙ってから、頷いた。
「三十年前の、献星だ。アンネリーゼ。ハンナが、塔に来る前の、話だ。……間に合わなかった。私が、報せを受けたのは、あの娘が消えた、六日後だった」
「六日……」
「ハンナは、娘を忘れることを、拒んだ。だから、塔に来た。忘れないでいられる、唯一の場所に。……あれが焼く星菓子は、三十年、ずっと、娘の好物だ。誰に食わせる菓子でも、あれは、アンネのために焼いている」
エステルは、頁を、そっと、撫でた。
ハンナさんは、名前を、知っている。娘の名を、忘れていない。けれど、この王都には——アンネという娘が、生きて、母の菓子を好んだことを、覚えている人が、一人も、いない。
教会の帳簿の、たった一行の外側に、この頁が、ある。
「この名前も、連れていきます」
エステルは、言った。
「審問の場に。アンネさんも。……ハンナさんの、自慢の娘さんです。王都中に、自慢して、いいはずです」
◇
夕暮れ、最後の一冊を、手に取ったときだった。
その一冊だけ、装丁が、違った。革が、他より、いくらか新しい。
開くと、最初の頁に、モリスさんの筆で、覚え書きが、あった。
『この一冊は、写しにございます。原本は、三十二年前、教会法務院が「照合のため」と申されて、持ち帰られ、ついに、戻りませんでした。——ゆえに、書き留めて、おきましょう。写しは、ここに。原本は、あちらに、と。』
エステルは、その一文を、二度、読んだ。
「アルヴェインさま。……教会も、記録を、持っているんですか」
彼は、写しを、受け取った。頁を、めくった。指が、一枚の紙の重さを、量るように、止まる。
「持っている。少なくとも、三十二年前に持ち帰った一冊分は。……モリスは、返らないと察して、その場で、写しを取った。二日、かけて」
彼の声が、低くなった。
「考えてみてくれ。教会は、都合の悪い記録を、どうしてきたか。三百年、娘たちを、一行で、消してきた連中だ」
暮れていく窓の光が、帳面の革に、赤く、差していた。
「持ち帰った記録を、あちらが、今も、そのまま、持っているとは——限らない」
エステルは、机の上の、四十七冊を、見た。
三百年で、四十七人。数えて、そう出た。
けれど、その四十七の外側に、まだ、数えられていない誰かが——いるのかもしれなかった。
お読みいただきありがとうございます。
三百年で、四十七人。娘たちの記録を、審問のために、並べ直しました。
その中に、ハンナさんの娘さん——アンネさんの、名前がありました。
好物は、星のかたちの焼き菓子。母の、焼くもの。
そして、装丁の違う一冊。教会もまた、記録を、持っていました。
次回、第39話「副司教の取引」。
ガリウス大司教の腹心が、甘い声で、取引を持ちかけてきます。
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蒼空ルーシェ




