第37話 静修院の母
静修院は、王都の、北の外れにあった。
高い塀に、囲まれた、白い建物だった。教会が、「心を病んだ」貴族を、「静養」させるための、施設。門は、いつも、閉じている。出入りするのは、教会の医師と、看護の修道女だけ。
私は、翌朝、一人で、そこへ、向かった。
門番に、名を、告げた。ユリアーナ・メルローゼの、娘です、と。
門番は、しばらく、奥へ、引っ込んで。戻ってくると、抑揚のない声で、言った。
「面会は、許可されておりません。ユリアーナ夫人は、外部との接触を、禁じられております。医師の、指示です。……お引き取りを」
「一目、でいいんです。会わせて、いただけませんか。私は、あの人の——」
「許可が、ありません」
扉は、それきり、開かなかった。
私は、白い塀を、見上げた。この、どこかに、母が、いる。塀一枚の、向こうに。それなのに、私は、母の顔を、もう、はっきりとは、思い出せない。⑥の座の星が、日ごとに、遠ざかっていく。私が、母を、忘れる前に。母は、この塀の中に、いる。
◇
諦めきれずに、塀の外を、歩いていた時だった。
裏手の、小さな通用門から、水を汲みに出てきた、年若い修道女が、いた。
私が、頭を下げて、事情を、話すと。彼女は、辺りを、見回してから、声を、潜めた。
「……夫人の、お身内の方、ですか」
「はい。娘、です」
「そう。……お会いになれなくて、お辛いでしょう。決まりなので、お通しは、できませんが。一つだけ、お伝えしても、いいでしょうか。誰にも、言わないで、くださいね」
修道女は、桶を、置いた。
「あの、ユリアーナ夫人。夜な夜な、紙と、インクを、所望なさるんです。何をお書きになるのか、と、はじめは、皆、不思議で。……お名前を、書いておられるんです。毎晩。どなたかの、お名前を」
胸が、詰まった。
「うまく、書けないと、仰って。何度も、何度も、書き損じて。朝になると、紙が、山のように。それでも、翌晩も、また、紙をくださいと。『まだ、書き切れていないから』と」
「……その、お名前は」
「そこまでは。夫人は、書いた紙を、決して、人には、お見せにならないので。ただ——ずっと、同じ、お名前を、書こうとして、おられるようでした。忘れないように、抗うみたいに。あんなに、必死な字を、私、見たことが、ありません」
修道女は、桶を、抱え直した。
「病、なんかじゃ、ないと、思います。あの方は。——誰かを、忘れまいと、必死に、戦っておられるだけ。それを、病と、呼ぶのなら。……私は、そんな決まりは、間違っていると、思います」
彼女は、そう言って、通用門の、向こうへ、消えた。
◇
鐘つき亭へ、帰った。
私は、しばらく、言葉が、出なかった。
やっと、口を、開いた時、声が、震えていた。
「母は、書いていました。毎晩。……誰かの名前を。忘れないように」
アルヴェインさまは、静かに、聞いていた。
「第一話の朝。母は、私に、初めて会う人の顔を、しました。私は、あの時、母にも、捨てられたと、思いました。父と、一緒に、私を、消したのだと」
私は、拳を、握った。
「違いました。母は、抹消願に、署名を、しなかった。ただ一人。そして今も——塀の中で、毎晩、名前を、書いている。忘れそうな、誰かの名を。書き損じても、書き損じても、また、翌晩。……病、ではありません。あれは、戦いです。私と、同じ。忘却に、抗う、戦いです」
「ああ」
アルヴェインさまが、頷いた。
「君の母は、裏切っていない。最初から、一度も。——それを、審問で、示せる」
「はい」
私は、顔を、上げた。涙は、拭った。
「母の、署名拒否の記録。抹消願に、母だけが、署名しなかった、という事実。あれを、審問で、使います。母を、証人に、出せないなら。母が、残した『拒否』そのものを、母の言葉の代わりに、法廷に、立てます。——紙は、忘れない。母が、署名を、拒んだ、あの一点も。忘れません」
ヴィオラさんが、涙ぐみながら、頷いた。眼鏡を、直す指が、濡れていた。
「目録に、加えます。『母の、署名拒否の、原本』。……必ず。読まれる場所に、出します」
◇
その夜、私は、窓辺に、腰かけて、王都の空を、見上げた。
塔の、五つの灯りは、ここからは、見えない。けれど、あるのを、知っている。テオが、毎晩、点けてくれている。「はやく、かえってきてね」と。
審問の期日は、通達された。今から、ちょうど、一月後。
手首の腕輪を、見た。
七つの座のうち、灯っているのは、三つ。
家門。母。私自身。
友の座は、この街で、消えた。あと、三つ。一月の間に、どれだけ、残せるだろう。母の星が、消える前に、私は、母に、会えるだろうか。塀の中の、あの人に。毎晩、名前を、書いている、あの人に。
でも、と、思った。
母が、忘れまいと、戦っているなら。私も、戦う。母が、名前を、書き続けているなら。私も、名前を、読む。四十七の名を。母の、拒否を。私の、名を。
覚えている限り。書き留められた限り。読まれる限り。
私たちは、まだ、消えない。
◇
——消えた星の光は、それでも、届いています。
覚えていてくれる人の、いる街にも。
お読みいただきありがとうございます。
母ユリアーナは、静修院に、囲われていました。面会は、叶いません。
けれど母は、毎晩、誰かの名を、書き損じながら、書き続けていました。
母は、裏切ってなど、いなかった——エステルは、それを、審問で示すと決めます。
審問まで、一月。腕輪の石は、残り、三つ。
これにて、第2部・第五章「王都は、覚えない」、了。
次回、第38話「四十七の帳面」。
三百年分の、四十七の名前を、読み上げる支度が、始まります。
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塀の中で、毎晩、名前を書き損じる、母の手に、☆ひとつ、お力添えを。
蒼空ルーシェ




