第34話 聖名広場の夜
その夜、聖名広場で、聖女の奇跡が、披露されるのだという。
行かない、という道も、あった。けれど、私は、行くと、言った。妹の奇跡が、どういうものか。三百年、娘たちの何を、燃やして灯ってきたのか。この目で、確かめておきたかった。
「群衆は、多い。はぐれるな」
アルヴェインさまは、私の手を、離さないように、と、言った。
「あの街の門の登録係が、五人。広場には、その、何倍もの、教会の目がある。……だが、それ以上に、危ういのは」
「危ういのは?」
「あの人数だ。十二万のうちの、何万かが、一つの場所に、集まる。誰も、君を、知らない。誰も、君を、見ない。——今夜の広場は、君にとって、この世で、一番、忘れられやすい場所になる」
◇
聖名広場は、人で、埋まっていた。
中央の高い壇の上で、白い衣の、妹が、両手を、広げていた。
ロゼリア・メルローゼ。私の、妹。聖女。
鐘が、鳴った。
妹が、祈りの言葉を、唱え始めた。すると、壇の周りの水盤の水が、淡く、光を、帯びた。病人の一人が、担架から、身を起こした。群衆が、どよめいた。祈りが、進むにつれ、光は、強く、なった。
美しかった。認めたく、なかったけれど。それは、確かに、美しかった。
でも、私は、知っていた。
その光が、強くなる、まさにその瞬間に。
私の手首の、腕輪の、残り三つの星が。かすかに、かすかに、減光していくのを。奇跡の光が満ちるほど、私の星が、細く、なる。同じ、拍で。
燃料は、これだ。
私だ。私たちだ。三百年分の、娘たちだ。
「アルヴェイン、さま。星が——」
振り返ろうとした。
その時、群衆が、どっ、と、前へ、押した。奇跡を、一目見ようと。うねりが、私を、呑んだ。
繋いでいた手が、ほどけた。
「エステル!」
声は、聞こえた。でも、姿が、人の波に、隠れた。
私は、押し流された。人と、人の、間へ。肩が、ぶつかる。背が、当たる。誰も、私を、見ない。誰も、「大丈夫か」と、言わない。私は、そこに、いないもののように、押され、流され、揉まれた。
「すみません、通して——」
声が、届かない。
誰の耳にも、私の声は、届かない。
私は、いない。
ここに、いない。
名前を、呼ぶ人が、いない。
顔を、見る人が、いない。
だから、私は、いない。
友も、忘れた。街も、見ない。奇跡が、私を、燃やしている。今、この瞬間も、細く、細く、私を。輪郭が、ほどける。溶ける。にじむ。私は、誰。私は、どこ。私は、私は、私は——。
「——エステル」
両肩を、掴まれた。
人の波を、割って。彼が、いた。
アルヴェインさまが、私の、両肩を、掴んで。そして、身を、かがめて。
自分の、額を。
私の、額に、当てた。
近く。すぐ、そこに。彼の、灰色の目が、あった。
「こっちを、見ろ。私の目を。——数えろ」
「かぞ、える……?」
「今日は、王都に着いて、四日目。塔を出て、十三日。夜は、まだ、更けていない。鐘は、さっき、一つ鳴った」
彼の声は、低く、正確で、揺るがなかった。周りの喧騒が、その声の周りだけ、遠のいた。
「君の名は、エステル・メルローゼ。九文字。塔の南の窓の、灯りの主。テオが、毎晩、君のために、灯りを点けている。ハンナが、君のために、星の菓子を焼く。モリスが、君の名を、台帳に、記した」
「……アルヴェイン、さま」
「私が、君を覚えてから、一度も、忘れた日は、ない。一日も。この街の、十二万人が、君を忘れても。この広場の、何万人が、君を見なくても」
額が、触れている。
彼の体温が、そこから、伝わってくる。私の輪郭が、溶けかけた、その、境目のところに。
「私は、忘れない。三百年、ただの一度も、忘れたことがない。——だから、君は、ここに、いる。誰が見なくても。私が、見ている。ここに、いる。エステル。君は、ここに、いるんだ」
溶けかけた絵の具が。
彼の額の、その一点から。もう一度、色を、取り戻していく。
私は、いる。
この人が、覚えている。だから、いる。
涙が、こぼれた。恐怖の涙では、なかった。
「……はい」
私は、彼の額に、額を、預けたまま、頷いた。
「はい。……ここに、います。私は、ここに」
「ああ」
「あなたが、覚えていてくれるから。私は、消えません」
「そうだ」
彼は、それ以上、何も、言わなかった。ただ、額を、離さなかった。数字の代わりに、体温で、私を、この世に、繋ぎとめていた。
三百年、誰にも言わなかった言葉を、彼は、数と、額で、言っていた。
◇
どれくらい、そうしていただろう。
群衆の、歓声が、ひときわ、高くなった。奇跡が、頂点を、迎えたらしい。
ふと、視線を、感じた。
私は、顔を、上げた。
壇の上。奇跡の光の、中心。
妹が。
ロゼリアが。
両手を広げたまま、祈りの言葉を、唱えたまま——その顔を、ゆっくりと、こちらへ、向けていた。
何万人の、群衆の、そのまん中の。誰も見ないはずの、私を。
まっすぐに。
見つけて、しまっていた。
あんなに、遠いのに。あんなに、人が、多いのに。妹の目は、迷わずに、私を、捉えていた。まるで——自分の光が、どこから来ているのかを、燃料が、どこで燃えているのかを、知っている、みたいに。
ロゼリアの、甘い笑みが、ほんの少し、揺れた。
私を、見つけた妹の顔は、喜びでも、驚きでもなかった。
もっと、名前のつかない、何か、だった。
お読みいただきありがとうございます。
聖名広場の群衆の中で、エステルの輪郭は、溶けかけました。
その淵で、アルヴェインは、額を寄せ、数字を、唱えました。
「私が、見ている。君は、ここに、いる」と。
けれど、群衆の中の彼女を、ただ一人、妹だけが、見つけました。
次回、第35話「妹の使い」。
奇跡は、姉を、知っています。
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蒼空ルーシェ




