第33話 忘れられた友
クラリッサの居場所は、すぐに、分かった。
エルムウッド子爵家は、王都の南、花街の近くに、屋敷を構えていた。ヴィオラさんが記録庁の名簿で調べてくれた。私が知っている、あの気の強い、けれど誰より優しい友は、今も、変わらず、そこにいた。
私は、一人で、行くと言った。
アルヴェインさまは、少し、黙ってから、「門の外で、待っている」と言った。止めは、しなかった。この人は、私が、何をしに行くのかを、たぶん、分かっていた。
「無理は、しなくていい。……いや」
彼は、言い直した。
「無理をしても、いい。だが、帰ってくることだけは、忘れるな。私は、ここに、いる」
「はい」
私は、胸の内側の手紙に、そっと、手を当てて、歩き出した。
◇
クラリッサは、屋敷の前の、小さな広場にいた。
仕立てのいい若い令嬢たちと、日傘の下で、笑っていた。春の舞踏会の話でも、しているのだろう。頬が、健やかに、色づいていた。呪いの噂に怯えて、私と距離を置いたあの頃の、強張った顔は、もう、どこにも、なかった。
元気そうだった。
本当に、元気そうだった。
私は、少し、離れた石畳から、その姿を、見ていた。声をかける勇気が、なかったわけではない。ただ、確かめたかった。
私は、意を決して、近づいた。
「クラリッサ、さま」
友が、振り返った。
その目に、私の顔が、映った。
——けれど、そこには、何も、灯らなかった。
「あら。……ごめんなさい、どちらさま、でしたかしら」
微笑みは、丁寧だった。初対面の相手への、行儀のいい、他人の微笑み。
私は、その一瞬で、すべてを、理解した。
友の中から、私は、もう、抜け落ちている。名前も、顔も、一緒に本を読んだ午後も、内緒話の全部も。「あなたのせいじゃない」と書いた手紙を渡す相手は、その手紙の意味を、もう、受け取れない。
「……失礼、いたしました。人違いを、したようです」
私の声は、自分でも、驚くほど、静かだった。
「お知り合いの方に、少し、似ていらしたので。——お元気そうで、何よりです」
「まあ、ご丁寧に。ええ、おかげさまで」
クラリッサは、令嬢の礼を返して、また、友人たちの方へ、向き直った。日傘の下の、明るい笑い声の中へ、戻っていった。
私は、名乗らなかった。
名乗って、思い出させることも、できたはずだ。ヴィオラさんのように、何度も会えば、記録の代わりに、なれたのかもしれない。けれど、私は、そうしなかった。
クラリッサは、今、幸せそうだった。呪いの影のない、日傘の下で。
私の名前を、思い出すということは、私の呪いを、思い出すということだ。友を、もう一度、あの怯えの中に、引き戻すことだ。——それだけは、したくなかった。
覚えていてほしい。誰より、そう思う。
でも、それ以上に、この人には、笑っていて、ほしかった。
◇
私は、広場の隅の、石のベンチに、腰を下ろした。
胸から、手紙を、取り出した。
クラリッサ・エルムウッド、と書いた宛名を、指で、なぞった。
この手紙は、もう、届かない。届けても、意味を、成さない。それでも——ここに、置いていこう、と思った。渡すのではなく。いつか、風にでも、拾われて。誰かの記憶にでも、紛れて。友の、幸せの、その、うんと外側に。
私は、手紙を、ベンチの、日の当たる隅に、置いた。小さな石を、飛ばないように、載せた。
「……さようなら、じゃ、ないから」
誰にも、聞こえない声で、言った。
「忘れても、いいから。あなたは、幸せに、なって。私は——覚えている。あなたの、笑った顔を。今日の、この、日傘の色を。全部。私が、覚えているから、いい」
◇
立ち上がろうとした、その時だった。
手首の腕輪が、ふっ、と、軽くなった気がした。
見ると、七つの座のうち、四つ目の星が——ずっと、淡く灯っていた、④の座の光が、す、と、細く、細くなって。
消えた。
音も、なく。痛みも、なく。ただ、一つ、灯りが、減った。
友の座が、暗く、なった。
私は、その暗くなった一点を、しばらく、見つめていた。涙は、出なかった。もう、覚悟していた。今日、ここへ来る前から、たぶん、知っていた。
残りは、三つ。
家門。母。そして、私自身。
◇
広場を、出た。
人通りの多い、大通りに、出た。
夕暮れの街は、人で、溢れていた。買い物帰りの女たち。荷を担ぐ男たち。走る子どもたち。誰もが、誰かの名を呼び、誰かに、呼ばれていた。
その、賑わいの、まん中で。
私は、ふと、立ち止まった。
誰も、私を、見ていなかった。
肩がぶつかっても、「失礼」の一言も、なかった。目が合っても、素通りだった。まるで、私が、そこに、いないみたいに。
——私は、本当に、ここに、いるのだろうか。
ぞっ、と、した。
友に忘れられ、街に見られず、この、十二万人の中で、私という輪郭が、じわじわと、水に溶ける絵の具のように、滲んで、いく。名前を呼ぶ人が、一人も、いない場所で、人は、こんなにも、簡単に、自分が、分からなく、なる。
私は、ここに、いる。
いる。
いる、はず——。
人混みの向こうに、門があった。門の外に、一つ、動かない影が、あった。
私を、待っている、影が。
お読みいただきありがとうございます。
友は、もう、エステルを忘れていました。
名乗らず、「お元気そうで」と、彼女は去りました。
渡せなかった手紙を、日の当たる隅に、置いて。
四つ目の星が、消えました。残りは、三つ。
次回、第34話「聖名広場の夜」。
群衆の中で、自分の輪郭が、溶けていきます。
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蒼空ルーシェ




