第32話 鐘つき亭
ヴィオラさんが選んでくれた宿は、大聖堂の裏通りにある、古い宿屋だった。
「『鐘つき亭』といいます。看板に、鐘の絵が。……大聖堂の鐘楼の、真裏なので。朝晩、いやになるほど、鐘が鳴りますが、逆に言えば、教会のすぐ足元。あちらは、まさか、自分の膝元に、私たちが泊まるとは、思いません」
主人は、赤ら顔の、太った人だった。
「いらっしゃい! お二人さん、何泊で?」
「差し当たり、七泊。延びるかもしれん」
「へえ、長逗留で。ようこそ、鐘つき亭へ。朝は、鐘で起きちまうんで、悪しからず!」
主人は、機嫌よく、私にも、笑いかけた。「お連れさんも、ごゆっくり」。
温かい、人だった。
だからこそ、私は、明日の朝を、少し、恐れた。
◇
夜、部屋に案内される前に、アルヴェインさまは、帳場に、立ち寄った。
宿帳を、貸してくれ、と言った。主人が、不思議そうに、差し出した。
彼は、羽根ペンを取り、自分の手で、二つの名を、書いた。
『番人、ならびに——エステル・メルローゼ。北の塔より。滞在、七泊』
「これで、いい」
「旦那、宿帳ってのは、こっちが書くもんですがね」
「知っている。だが、この名は、私が書く。——正確に、残したいんだ」
主人は、変わった客だ、というふうに、肩をすくめて、笑った。
◇
鐘の音で、目が覚めた。
朝の食堂に降りると、主人が、竈の前で、忙しく、動いていた。
「おはよう、ございます」
私が、声をかけると、主人は、振り返って——一瞬、きょとん、とした。
「おや。……はて。お客さん、昨日、お着きで?」
胸の底が、静かに、冷えた。
「ええ。番人と、二人で。七泊の」
「ああ、そうそう、番人の旦那! いやあ、失礼。旦那のことは、覚えてるんですがねえ。連れの方が、いらしたとは。……歳ですかね、あたしも」
主人は、頭を掻いて、卓に、支度を、始めた。
カップを、一つ。
それから、ちょっと首をかしげて、もう一つ、足した。
「二人分、でしたな。いけない、いけない」
欠けた一つを、主人は、自分の物忘れのせいに、した。
私は、何も言わずに、席に、着いた。悲しくは、なかった。ただ、確かめただけだ。この街は、こういう街だ。昨夜、笑いかけてくれた人の中から、私が、一晩で、抜け落ちる。そういう街に、私は、来た。
少し遅れて、アルヴェインさまが、降りてきた。
彼は、帳場の宿帳を、開いた。昨夜、自分で書いた頁を、主人に、見せた。
「主人。ここに、二人分、書いてある。あんたの帳面だ。——あんたが忘れても、この紙は、忘れない。今朝、あんたが、カップを二つ出せたのは、あんたの記憶のおかげじゃない。この、一行のおかげだ」
主人は、宿帳を、覗き込んで、目を、丸くした。
「こりゃあ……確かに。あたしの字じゃ、ないが。二人、と、書いてある」
「毎晩、私が書く。あんたは、毎朝、これを見てくれ。それだけで、いい」
主人は、しばらく、その一行を、見つめていた。それから、妙に、しんみりした声で、言った。
「……なるほどねえ。忘れっぽいのを、紙で、補う、と。旦那、いい考えだ。あたしも、女房の言いつけを、これで、書いときゃよかった」
小さな冗談に、私は、少し、笑えた。
覚えてもらう、ということは、こういう、地味な仕事の積み重ねなのだと、思った。魔法でも、奇跡でも、ない。誰かが、毎晩、ペンを執って、名前を、書き足す。それだけの、根気だった。
◇
昼、ヴィオラさんが、書類の束を抱えて、やってきた。
「決めてきました。私の職場——記録庁の、第三書庫を、こちらの足場に、します。あそこは、私の管轄で、教会の者も、勝手には入れません。塔の記録の照合も、法務院への申立の下書きも、あそこで、できます」
「ヴィオラさん、職を、危うくは……」
「もう、危ういです」
ヴィオラさんは、きっぱり、言って、眼鏡を、直した。
「でも、私、決めたんです。塔の綴りを、十日、読み続けて。……あそこには、四十を超える、名前が、あります。誰にも読まれずに、書庫の奥で、眠っていた名前が。私は、記録庁の書記官です。読まれない記録は、記録の、恥です。——だから、読まれる場所に、出します。私の、仕事として」
その横顔は、モリスさんに、少し、似ていた。
「よろしく、お願いします。ヴィオラさん。……三人、いえ、塔の皆を入れれば、もっと。覚えていてくれる人が、いる。それが、こんなに、心強いものだとは」
◇
その夜、荷物を、片付けていた時だった。
外套の内側の、胸の合わせから、一通の、封をした手紙が、落ちた。
宛名は、クラリッサ・エルムウッド。
私は、それを、拾い上げて、しばらく、動けなかった。
塔にいた頃、書いた手紙だった。呪いのことを打ち明けられずにいた友へ——いつか私を忘れても、あなたのせいではない、忘れてしまって、いい、と。そう、書いた。書いて、けれど、出せなかった。「忘れてもいい」と友に告げることが、どうしても、できなかった。
だから、私は、この手紙を、ずっと、持っていた。
塔から、王都まで。十日の旅の間も、胸の内側に。出せもせず、捨てもできず、ただ、抱えて。
クラリッサは、この、王都にいる。
私は、手紙を、両手で、そっと、包んだ。
——渡せずに、持っている。忘れてもいい、と書いた手紙を。忘れられたくない、と願う心のまま、私は、まだ、持っている。
お読みいただきありがとうございます。
鐘つき亭の主人は、一晩で、エステルを忘れました。
アルヴェインは、毎晩、宿帳に名を書き足すことを、決めました。
覚えてもらうとは、根気の、いる仕事でした。
そして、渡せずにいた、クラリッサへの手紙。
次回、第33話「忘れられた友」。
友は、王都に、います。
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宿帳の一行と、二つ並んだカップに、☆ひとつ、お力添えを。
蒼空ルーシェ




