第31話 十日目の門
王都の城壁が見えたのは、塔を出て、十日目の、昼だった。
馬車の窓から、私は、灰色の壁を、見上げた。塔よりも、ずっと高い。けれど、塔のような温かさは、どこにもなかった。石は、どこまでも、他人の顔をしていた。
「大きい……」
「人口、約十二万。麓のルメール村の、およそ二百倍だ」
アルヴェインさまが、膝の暦から目も上げずに、言った。
「三百年前より、四倍になった。城壁も、二度、外へ広げている。……だが、変わらないものが、一つ、ある」
「変わらないもの?」
「この街は、覚えない。昔から、そうだ」
私は、彼の横顔を、見た。
「覚えない、というのは」
「塔では、君を覚える者が、四人いた。モリスも、ハンナも、テオも、私も、君を記録している。だから塔の中では、君は、忘れられない。——だが、ここは違う。この街で君が今日出会う者は、明日の朝には、君を覚えていない」
私は、膝の上の手を、そっと、握った。
「昨夜の宿の主人が、そうだった。夜に名を名乗り、朝にはもう、初めての客の顔をされた。あれが、この街の、地の色だ。十二万人。その、ほとんど全員が、君を一晩で忘れる」
「……十二万人の中に、たった一人で、いるようなものですね」
「そうだ」
彼は、そこで初めて、暦を閉じた。
「だから、私が、いる」
短い言葉だった。慰めの飾りは、一つもなかった。けれど、その一言が、灰色の壁を、少しだけ、遠ざけた。
馬車は、城門へ続く、街道を、進んだ。道の両側に、少しずつ、家が、増えていく。畑が、市場に変わり、荷車が、行き交い始める。
すれ違う人の、誰の顔にも、私は、覚えがなかった。当たり前だ。そして——その誰もが、明日には、私に会ったことすら、覚えていない。行き交う何万の人と、私は、今、初めて、そして最後に、すれ違っている。
塔なら、モリスさんが、名を呼んでくれた。ハンナさんが、菓子を焼いてくれた。テオが、灯りを、点けてくれた。ここには、それが、ない。
でも、と、私は、思い直した。塔にも、最初は、何も、なかった。名を呼ぶ人を、一人ずつ、増やしていったのだ。この街でも、同じことを、すればいい。一人ずつ。根気よく。私は、覚えている側の人間だ。忘れられることには、慣れても——覚えることを、諦めた日は、一日も、ない。
◇
門は、思っていたより、混んでいた。
荷馬車と、巡礼らしい一行と、物売りの声。その流れの脇に、一つだけ、動かないものがあった。
教会の、灰白の衣を着た男が、門の内側に、机を出して座っていた。膝には、分厚い帳面。門をくぐる者を、一人ずつ、目で追っては、時折、筆を、走らせている。
「あの人は……」
「巡礼者の登録係だ。表向きは、な」
アルヴェインさまの声が、低くなった。
「三百年前には、いなかった役だ。人の出入りを、紙に、控えている。——皮肉なものだ。人を、記録から消すのが得意な組織が、門では、こうして人を数えている」
男の目が、こちらの馬車で、止まった。
筆が、動いた。何かを、書き留めた。それだけのことなのに、背中を、細い水が、伝った。私は、記録から消される側だったはずなのに。ここでは、着いた瞬間に、記録されている。
「見られましたね」
「ああ。この馬車が門をくぐったことは、日暮れまでに、法務院へ届く。……こちらの手札は、一枚、めくられたと思っていい」
その時だった。
人混みの中から、一人の女の人が、まっすぐに、こちらへ歩いてきた。
紺の外套。少し急いだ足取り。近づくにつれ、私は、その顔を、思い出した。眼鏡の縁に、指を、当てる癖。
「ヴィオラさん!」
「エステルさま。番人さま。——十日目の、昼過ぎ。ちょうど、記録の通りの、お着きです」
ヴィオラさんは、息を弾ませながら、眼鏡を、押し上げた。
「お迎えに、上がりました。私、この十日、記録庁の書庫で、毎日、塔の綴りを読み返していたので。……エステルさまのお顔も、番人さまのお背丈も、全部、頭に、入っています。ええと、六尺と、少し」
「私を、覚えていて、くれるのか」
「はい。紙に触れている者は、忘れにくいのです。私は、書庫で、毎日、あなた方に会っています。文字の上で。——だから、この街で、たった一人でも、覚えている人間が、必要でしょうと思って。……出過ぎた真似、でしたら」
「いいえ」
私は、首を、振った。声が、少し、震えた。
「いいえ。……ありがとうございます。ヴィオラさん。十二万人の、その、外側から。あなたが、一人。覚えていてくださって」
ヴィオラさんは、少し、慌てたように、また眼鏡を、直した。それから、声を、落とした。
「歩きながら、お伝えします。門の、あの登録係。あれ、ここ数日で、増えました。三人から、五人に。……あちらは、もう、あなた方が来ることを、知っています。この街に入った瞬間から、あなた方は、見られています」
私は、手首の腕輪に、そっと、触れた。
七つのうち、灯っているのは、四つ。塔を出た時と、同じ数。まだ、間に合う。まだ、消えていない。
灰色の門を、馬車が、くぐった。
覚えない街の、一番外側の輪の中へ、私は、入っていった。
お読みいただきありがとうございます。
十日の旅の果て、エステルは、王都に着きました。
けれどこの街は、出会った者を、一晩で忘れる街。
たった一人、ヴィオラさんだけが、紙の上で、彼女を覚えていました。
そして門には、教会の、監視の目。
次回、第32話「鐘つき亭」。
覚えない街で、どこに、足場を築くのか。
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蒼空ルーシェ




