第29話 承認欄の署名
雪の季節の入り口に、ヴィオラさんが、再び、塔に来た。
今度は、調査ではなかった。彼女の鞄には、休暇願の控えと、私たちへの土産の王都の茶葉と——一通の、書類の写しが、入っていた。
「お休みを取って、来ました。これは、書記官としてではなく、ヴィオラ・カッセル個人として、お持ちしたものです。……正規の手続きでお見せすると、私、たぶん、職を失うので」
暖炉の前で、彼女は、写しを、机に置いた。
「却下された抹消願の、原本綴りです。書庫の奥に、保管されました。保管の前に、頁の通し番号を検めるのが、決まりで——そのとき、見つけました。最後の頁です」
めくった。
抹消願の、末尾。各種の添付書類の、目録の、さらに後ろ。『承認協賛』と題された、一枚。
「承認協賛というのは、第三者が『この願いは正当である』と口添えする書式です。貴族の家同士の案件で、たまに使われます。でも、この案件のは、変なんです」
その頁には、署名が、三つ、並んでいた。
一つ目。ゲルハルト・メルローゼ。父。
二つ目。聖女ロゼリア。妹。
そして、三つ目——
『本件の願出は、教会法務院の見解に照らし、正当である。
献星制度の円滑なる運用のため、速やかなる承認を求める。
レンフォルド大司教 ガリウス』
「日付を、見てください」
ヴィオラさんの指が、署名の横を、さした。
「大司教の署名の日付——抹消願の、提出日より、二十日も、前なんです」
一瞬、意味が、分からなかった。
それから、氷水が、背中を、伝った。
「……願いが、書かれる前に、承認の口添えが、書かれている」
「そうです。順番が、逆なんです。普通は、家が願いを出して、教会が後から協賛する。これは——教会が先に紙を用意して、家に、願いを出させた」
アルヴェインさまが、写しを、手に取った。
「絵の答え合わせ、だな。抹消願の筆は、父親が執った。だが、構図を描いたのは、最初から、ガリウスだ。……『献星制度の円滑なる運用のため』。この一句が、動機の自白でもある」
「円滑なる、運用……」
「考えてみてくれ。君は、目障りなんだ。あちらにとって」
彼は、暖炉の火を、見た。
「歴代の献星は、静修院で、静かに、消えていった。誰にも知られず、誰にも惜しまれず。制度は、三百年、それで回ってきた。ところが、今代の献星は——辺境の塔で、墓石に名前を返し、聖女の奇跡の時刻を計り、抹消願を却下させ、王宮記録庁に味方を作った。君は、献星の歴史で、初めて『騒ぐ水』なんだ。井戸の水は、静かでなければ、汲みにくい」
「だから、紙の上から、消す。それが駄目なら——」
「次は、特許状だ。書状にあった通り、『三百年前の紙切れ』の効力を、王宮に再審させる。塔の保護権を、剥がしにくる。それが通れば、移送を拒む法的な盾が、なくなる」
ヴィオラさんが、頷いた。
「実は、その報せも、持ってきました。教会法務院が、特許状の再審を、正式に申し立てました。先週です。王宮は、受理しました。——審理は、王都で、開かれます。塔の特許状の、正本の提出と……当事者の、出頭が、求められます」
広間が、静かになった。
王都。
すべてが始まった場所。父の屋敷と、妹の大聖堂と、大司教の法務院のある街。
「出頭、しなければ、どうなりますか」
「欠席のまま、審理されます。たぶん、負けます。教会は、王宮の中に、いくらでも、口のきける人がいますから。……正直に言います。出頭しても、厳しい戦いです。あちらの土俵ですから」
ヴィオラさんは、悔しそうに、唇を、噛んだ。
「ごめんなさい。せっかく、抹消願に勝ったのに。こんな報せを、持ってくることになって」
「いいえ、ヴィオラさん」
私は、首を、振った。
怖くないと言えば、嘘になる。でも、胸の中で、何かが、座り直す音がした。
「教えてくださって、ありがとうございます。おかげで、分かりました。敵は、もう、隠れる気がないんです。父でも、妹でも、クラウスさまでもなく——ガリウス大司教。三百年、井戸の水を、静かに汲んできた人。その人が、初めて、自分の名前で、紙に署名して、出てきた」
暖炉の火が、爆ぜた。
「逃げも、隠れもしない敵が、名乗ったんです。なら、こちらも、名乗り返すだけです。——エステル・メルローゼ。記録の上に、残ると決めた者です、って」
お読みいただきありがとうございます。
承認欄の署名。日付は、提出日の、二十日前。
絵を描いていたのは、最初から、大司教ガリウスでした。
そして、特許状の再審。戦場は——王都へ。
次回、第30話「覚えてもらいに、行きます」。
第1部「星灰の塔編」、最終話です。
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