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第28話 エス、まで

 母からの二通目の手紙は、初雪の日に、届いた。


 今度の封筒には、差出人の名前が、あった。ユリアーナ・メルローゼ。そして、住所が——メルローゼ家の屋敷では、なかった。


『あの子へ


 まず、お報せから。

 わたくしは、いま、妹の家に、おります。あなたの、叔母にあたる人の家です。


 審査の決定が出たあと、夫と、長い長い、話をしました。話、というのは、正確ではないかもしれません。わたくしが、生まれて初めて、あの人に、言いたいことをすべて言い、あの人は、一度も、言い返せませんでした。


 審査の場で、あの人は、審査官さまに、問われたそうですね。「あなたは、夜ごと、何をしておられた」と。あの人は、家でも、その問いから、逃げ続けました。逃げ続ける人と、同じ食卓に着くことは、もう、できませんでした。


 別居の手続きは、叔母さまの家の法務官が、進めてくれています。あの家を出る朝、わたくしは、針箱と、刺繍の一枚と、柱の傷を写し取った紙だけを、持って出ました。それだけが、あの家にあった、わたくしの財産でした。


 さて。

 ここからが、本題です。


 あなたの審査の決定文の写しを、叔母さまの伝手で、読みました。そこに、あなたの名前が、書いてありました。


 エステル。


 読んだ瞬間に、分かったのです。ああ、これだ、と。霧の向こうで、幾月ものあいだ、呼び続けた名前は、これだったのだ、と。


 それで、わたくしは、紙に、書いてみました。

 今度は、書けたのです。


 エス、まで。


 エステル、と、お手本を見ながらなら、写せます。でも、何も見ずに書くと、エス、で、ペンが、止まります。その先が、霧です。それでも、ねえ、聞いてください。初めの頃は、エ、で、止まっていたのです。いまは、エス、まで、書けるのです。


 お医者さまは(教会ではない、叔母さまのお医者さまです)、こう仰いました。呪いに、抗う力は、証明できない。けれど、忘れまいとする習慣が、忘れる速さと、綱引きをすることは、あるのかもしれません、と。


 だから、わたくしは、毎晩、書きます。

 エス。エス。エス。

 いつか、テ、まで。その次は、ル、まで。


 全部、書けた日には、北へ、参ります。

 雪が解けたら、と思っております。

 会いに行くのではありません。「初めまして」を、言いに行くのです。それから、あなたの口から、あなたの名前を、教わるのです。世界で、いちばん、正しい発音で。


 あなたの母より


 追伸

 同封のものを、ご覧なさい。叔母さまの家の物置で、見つけました。わたくしの母——あなたの祖母の、遺品の箱にあったものです。なぜだか、これを見ると、胸が、ざわざわします。大事なものの気がするのに、思い出せません。あなたなら、何か、分かるかしら』


 同封されていたのは、一枚の、古い古い紙だった。


 羊皮紙。手のひらほどの大きさ。色褪せた、几帳面な字で、何かの図が、描かれている。


 円が、七つ。


 星のかたちに、並んでいた。


 円のひとつひとつに、古い文字で、小さく、注記がある。読めない文字も、あったけれど、図の形だけで、分かった。これは——私の腕輪の、設計図だ。


 そして、紙の右下の隅に、署名が、あった。


 インクが、掠れて、最初の数文字しか、読めない。


『アステ——』



   ◇



「アステ」


 その夜、書庫の机に、羊皮紙を置いて、アルヴェインさまは、長いあいだ、動かなかった。


 燭台の灯りの中で、彼の顔は、見たことのない色をしていた。三百年の人の顔から、三百年が、抜け落ちたような——ただ、立ち尽くす、若い男の人の顔だった。


「アルヴェインさま。この署名に、お心当たりが」


「…………」


「アルヴェインさま」


「——ある」


 声が、掠れていた。


「あるが……今夜は、勘弁してくれ。これを話すには、その」


 彼は、いつもの彼なら、決して言わない言い方で、言った。


「……三百年、かかる」


 いつかの夜と、同じ言葉。けれど、あのときは、はぐらかしだった。今夜のそれは、本物の、重さだった。


「では、お訊きしません。今夜は」


 私は、羊皮紙を、そっと、彼のほうへ、押した。


「お預けします。お話しできる日が来たら、聞かせてください。三百年ぶんでも、私、聞きます。……私の祖母の箱から出た紙と、あなたの三百年が、繋がっているなら。それは、もう、私の話でもある気がするので」


 彼は、羊皮紙を、受け取った。


 両手で。あの、世界で一番大事な記録を扱う、手つきで。


「……ありがとう」


 それは、彼が私に言った、初めての、お礼の言葉だった。


お読みいただきありがとうございます。


エ、から、エス、へ。

母の綱引きは、一字ぶん、勝ち越しています。

雪が解けたら、「初めまして」を言いに、北へ。


そして祖母の遺品から、腕輪の設計図。

署名は『アステ——』。

番人の顔から、三百年が、抜け落ちました。


次回、第29話「承認欄の署名」。

第1部の最後の敵が、正体を、現します。


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時とともに進んでゆく忘却に抗い娘の名前を抱きしめようと足搔き続ける母の愛が胸に刺さります。
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