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第23話 紙は、忘れない

 北部辺境庁、シュタインヴァルト支所は、石造りの、堅実な建物だった。


 審査室には、長机が、コの字に置かれていた。正面に、審査官が三人。年かさの主任審査官と、両脇に、陪席がふたり。そして、書記の席に——見覚えのある、眼鏡。


 ヴィオラさんだった。彼女は、私と目が合うと、職務中の固い顔のまま、眼鏡の縁に、ちょん、と指で触れた。彼女なりの、挨拶らしかった。


 向かいの席に、父が、いた。


 ゲルハルト・メルローゼ伯爵。三月ぶりに見る父は、記憶より、痩せていた。父の隣には、雇われ法務官らしき、揉み手の男。


 父は、入室した私を、ちらりと見た。


 その目に、浮かんだものを、私は、生涯、忘れないと思う。


 憎しみでは、なかった。後悔でも、なかった。


 「面倒なものが、まだあった」——ただ、それだけの目だった。帳簿の隅の、消し忘れた数字を見る目。私の十七年は、父の中で、もう、その程度の大きさしか、なかった。


 不思議と、その目が、私を、落ち着かせた。


 ああ、と思った。この人を、説得する必要は、ないのだ。心は、別の仕事をすればいい。そして今日の私の心の仕事は——悲しまないこと、ただ、それだけだった。


「これより、記録抹消願第一一四号の、対面審査を行う」


 主任審査官の声で、審査は、始まった。



   ◇



 前半は、あちらの法務官の独擅場だった。


「——以上のように、メルローゼ家は、忘れ星の呪いという、家門の不幸に、誠実に対処してまいりました。記録の抹消は、決して、令嬢を疎んじてのことではなく、むしろ、哀れな令嬢の尊厳を、好奇の目から守るための、慈悲深い措置なのであります」


 慈悲深い措置。よくもまあ、と思うほど、なめらかな弁舌だった。


「奥方の署名の欠缺については、診断書の通り、深い心痛による、心神の耗弱でありまして——」


「審査官どの。発言を求める」


 アルヴェインさまが、立った。


「申立人側、補佐人。星灰の塔、番人アルヴェイン」


 法廷が、ざわ、とした。陪席の審査官の一人が、思わず、という様子で、呟いた。「実在、したのか」——辺境の官吏にとってさえ、塔の番人は、半分、伝説の住人らしかった。


「ただいまの『心神耗弱』について、反証を示す。申立書添付の、証拠一号。願出人の妻、ユリアーナ・メルローゼ夫人の、自筆書簡」


 母の手紙の写しが、審査官たちに、回された。


「お聞きの通り、診断書は『署名能力を欠く』と主張する。だが、この書簡を見られたい。論理は一貫し、記述は具体的で、日付も正確。物証への言及は、二点。針箱の刺繍。子供部屋の柱の傷。——いずれも、現物の確認が可能だ。これは、署名『できない』人間の文章か。それとも、署名を『しない』と決めた人間の文章か」


 主任審査官が、手紙を、長いあいだ、読んでいた。


「……願出人に、問う。夫人の診断書を書いた医師の名は」


 法務官が、書類を、繰った。


「は。王都の、デルブリュック医師で——」


「教会医師団の、所属医ですな」


 ヴィオラさんが、書記席から、すっ、と補足資料を、差し出した。事前に、調べてあったのだ。教会お抱えの医者の診断書。教会の推薦状。教会、教会、教会。書類の山の、どこを切っても、同じ顔が出てくる。


 審査官たちの目の色が、変わっていくのが、分かった。



   ◇



 休憩を挟んで、午後。


「次に、申立人の、実在性の確認に移る。……申立人。前へ」


 私は、立ち上がり、部屋の中央に、進んだ。


「氏名を」


「エステル・メルローゼです」


「生年月日と、出生地を」


 答えた。洗礼の教会の名前も。立ち会った司祭の名前も。


「ふむ。……では、確認する。願出人、メルローゼ伯爵」


 主任審査官は、父に、向き直った。


「あなたの目の前にいる、この女性は、あなたの長女、エステル・メルローゼどのか」


 部屋が、静かになった。


 父は、私を、見た。


 長く——とても、長く、見た。


 そして、私は、見てしまった。父の目の中で、何かが、霧のように、揺らいでいるのを。焦点が、合っては、ずれるのを。父は、眉を寄せ、首を、かしげた。本当に、分からない人の、顔だった。


「……似ては、いる」


 父は、言った。


「だが、断言は、できかねる。娘とは、その、もう三月も、会っていないので——顔が、その」


 嘘ではないのだ、と気づいて、背筋が、冷えた。


 五つ目の石。家門の輪。父は今、呪いの霧の中にいる。私を消す書類を出した本人が、私の顔を、もう、思い出せなくなっている。自分が何を消そうとしているのかも、分からないままに、消そうとしている。


 なんという、ことだろう。


 審査室が、ざわめいた。「親が、娘の顔を」「呪いとは、ここまで」——。


「静粛に」


 主任審査官が、木槌を、鳴らした。


「……記録する。願出人は、申立人の同一性を、確認できなかった。——よって、本人確認は、別の手段に拠る。書記官」


「はい」


 ヴィオラさんが、立ち上がった。彼女の腕には、分厚い、紙の束。


「王宮記録庁の現地調査報告、ならびに、証拠一号から十七号。——紙による、本人確認を、始めます」


 彼女は、私を見て、今日、初めて、口元だけで、笑った。


「人の記憶が、当てにならないときの、ためにですね。世界には、紙が、あるんです」


お読みいただきありがとうございます。


審査、前半戦でした。

父は、娘の顔を、確認できませんでした。

消そうとしている本人が、もう、霧の中でした。


「人の記憶が、当てにならないときのために、世界には、紙が、あるんです」


次回、第24話「十七枚の、足あと」。

ヴィオラさんの、紙の本人確認。そして、審査の行方。


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眼鏡の縁の、ちょん、という挨拶に、☆ひとつ、お力添えを。

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