第21話 書類にも、残す
ヴィオラさんの調査は、三日間、続いた。
彼女は、本当に、紙の専門家だった。
マルゴの家計帳の写しを見て、「この筆圧の変化、本物の日常の帳面です。後から作った帳面は、筆圧が、揃いすぎるんです」と言った。
母の手紙を見て、長いあいだ、黙った。それから、小さな定規で、インクの滲みを測り、「執筆時期は、記載の日付と、矛盾しません」とだけ、書類に書いた。書きながら、また、眼鏡の奥を、拭っていた。
私への聞き取りは、半日に及んだ。生まれた日のこと。屋敷の間取り。使用人の名前。社交界の、誰と、いつ、何を話したか。
「……驚きました。記憶の解像度が、尋常じゃありません。日付まで、全部」
「忘れられる側だったので。覚えるほうだけでも、と思って、生きてきました」
「その記憶も、報告書に書きます。『申立人の陳述は、具体的かつ詳細であり、提出された物証と、すべて整合する』。——これ、書記官の書く文章では、最大級の賛辞なんですよ」
三日目の夕方、ヴィオラさんは、報告書を書き上げた。
「明日の朝、発ちます。報告書は、私が、直接、審査官に渡します。途中で『失くなる』といけませんから」
書類が、途中で失くなる。そういうことが、王宮では、起きるのだ。彼女の眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。
「結果は、二十日以内に出ます。私の見立てでは——異議は、認められます。母君の署名の欠缺は、致命的です。それと」
彼女は、声を、少しだけ、落とした。
「調査の過程で、妙なものを、見つけました。抹消願の、教会の推薦状です。本来、家の記録の抹消に、教会の推薦は、要りません。なのに、ついている。署名は——大司教ガリウス。……この案件、家の話じゃ、ないですね? お時間のあるときに、聞かせてください。私、紙の向こうの話も、知りたくなってしまったので」
この人は、いつか、もっと深くまで、味方になってくれる。そんな予感がした。
◇
ヴィオラさんを見送った日の夜。
私は、書庫で、一人、申立書の控えを、読み返していた。
起草、アルヴェイン。あの人の字を、初めて、まじまじと見た。定規で引いたような、几帳面な字。なのに、ところどころ——私の名前のところだけ、ほんの少し、線が、柔らかい。
「まだ、起きていたのか」
声に、顔を上げると、アルヴェインさまが、燭台を手に、立っていた。
「あの。……読み返していました。この書類、すごいです。私の十七年が、ぜんぶ、ここにあるみたいで」
「事実を、並べただけだ」
「その事実を、十七点も、集めてくださいました。……アルヴェインさま。一つ、ずっと、考えていたことが、あるんです」
私は、控えの束を、机に置いた。
「異議が認められても、認められなくても。私の石は、減っていきます。十月の刻限は、変わりません。最後の石が消えたら、私は、私を忘れます。……そうなったとき。書類の上の『エステル・メルローゼ』だけが、残ります」
「エステル——」
「あ、悲観の話では、ないんです。逆です」
私は、慌てて、首を振った。
「気づいたんです。私、ずっと、『人の記憶』と『紙の記録』は、別のものだと思っていました。記憶が本物で、記録は、その写しだって。でも、違いました。ベルタ婆さんも、母の手紙も、この申立書も——記録は、記憶の、種なんです。紙が残っていれば、誰かがいつか、読んで、もう一度、覚えてくれる。記録は、未来の記憶なんです」
だから、と、私は続けた。
「最後の石が消える日までに、私、書こうと思うんです。私の記録を。私が、私を忘れても、いつか、読み返して、もう一度、自分を覚え直せるように。あなたが教えてくださった、この塔のやり方で——私を、私に、返せるように」
アルヴェインさまは、長く、黙っていた。
燭台の灯りが、彼の灰色の瞳の中で、揺れていた。
「……私は、三百年、覚えることだけを、してきた」
やがて、彼は、静かに、口を開いた。
「記憶は、消えない。私の中では。だが、私の記憶は、私が読ませたい者に、読ませることが、できない。テオに、ハンナに、未来の誰かに——『この人は、こういう人だった』と、手渡すことが、できない。それが、不忘の、欠陥だ」
彼は、机の上の、申立書の控えに、手を置いた。
「君の言う通りだ。記録は、未来の記憶だ。だから——」
そこで、彼は、私を、まっすぐに見た。
「君の名前を、書類から、消させない。私が覚えている限り、いや——」
言い直した。三百年の人が、言葉を、選び直した。
「いや。違うな。私が覚えている、だけでは、足りない。……書類にも、残す。両方だ。私の記憶と、世界の記録と、両方に、君を残す。どちらか一方では、もう、足りない」
どちらか一方では、足りない。
その言葉が、何を意味するのか、訊き返す勇気は、なかった。ただ、胸の奥が、熱かった。
彼の手が、机の上で、私の手の、すぐ隣にあった。
どちらからとも、なかったと思う。
小指が、触れて。それから、ゆっくり、手のひらが、重なった。手袋越しではなかった。彼は、あの夜から、書庫では、手袋をしなくなっていた。
三百年の手は、思っていたより、ずっと、あたたかかった。
「……手が、冷えている」
「アルヴェインさまが、あたたかいんです」
「では、もう少し、このままで」
「はい」
燭台の蝋が、ひとつ目盛りぶん、短くなるまで。
書庫には、頁をめくる音も、ペンの音もなく、ただ、二人分の、静かな呼吸だけが、あった。
——消えた星の光は、それでも、届いています。
書き留めた紙の上にも。
お読みいただきありがとうございます。
第3章「七つ目の石」、これにて、お開きです。
「記録は、未来の記憶」——エステルが、見つけた答えです。
「書類にも、残す。両方だ」——番人の、答えです。
そして、手が、重なりました。手袋は、なしで。
次回、第22話「審査の日」。
第4章「記録は、消えません」、です。熱い声援があれば、再開いたします。
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