第20話 母の署名
異議申立の書面は、三日かけて、作られた。
正式の題は『記録抹消願に対する異議申立書 申立人 エステル・メルローゼ』。
アルヴェインさまの起草に、モリスさんが形式を整え、最後に、私が、署名した。
ペンを置く前に、自分の名前を、見つめた。エステル・メルローゼ。この署名は、ただの署名ではなかった。「私は、ここにいます」という、世界への、申し立てだった。
添付された証拠は、十七点。
母の手紙と「エ」の字の紙(写し)。マルゴの家計帳の写し、七年分。仕立て屋の台帳。本屋の配達記録。洗礼の記録の写し。家庭教師への月謝の領収綴り。——十七年分の、「いた」という、紙の山。
「これだけの記録が、お嬢様が王都で生きてこられた、足あとで、ございます」
モリスさんが、書類の束を、紐で綴じながら、言った。
「人の記憶は、呪いに、勝てませなんだ。ですがな、お嬢様。王都中の商人たちは、知らぬまに、お嬢様を、覚えておったのですよ。帳面という形で。……商人の帳面は、嘘をつきません。金銭が、絡みますでな」
書類は、モリスさんの伝手を通じ、確実な手で、王宮記録庁に、届けられた。
提出の翌日から、私は、落ち着かなかった。書庫の仕事をしていても、気がつくと、窓の外の、坂道を見ていた。報せの早馬を、待ってしまう。
「異議の審査には、最短でも十日かかる」
アルヴェインさまに、そう言われても、だめだった。
「待つ時間に、慣れていないな」
「……はい。お恥ずかしいです」
「恥ずかしくはない。待てない、というのは、初めて、結果に望みがある、ということだ。あの屋敷で、君は、何も待っていなかったはずだ。望みのない者は、待たない」
そういうことを、言う人なのだった。
◇
十二日目に、報せは、来た。
ただし、早馬ではなく——客として。
夕暮れの坂道を、地味な外套の、小柄な女の人が、登ってきた。歳は、私より少し上。眼鏡の奥の目が、寝不足のように、しょぼしょぼしていた。
「夜分に、失礼します。王宮記録庁、第三書庫付き書記官、ヴィオラ・カッセルと申します」
彼女は、官吏の身分証を、几帳面に提示した。
「記録抹消願、第一一四号——メルローゼ家の案件の、現地調査を、命じられて参りました。その……異議申立書を、書庫で拝見しまして。あの、単刀直入に、伺います」
ヴィオラさんは、ごくり、と息を呑んで、私を見た。
「あなたが、エステル・メルローゼさま、ご本人ですか」
「はい」
「……生きて、いらっしゃる」
「はい。生きて、います」
彼女は、そこで、なぜか、泣きそうな顔をした。
「よかった……。いえ、あの、失礼しました。説明します。私、抹消願の形式審査の担当だったんです。書類は、形式上、完璧でした。診断書も、署名も、揃っていて。あのままなら、機械的に、承認されていました。一人の人間が、紙の上から、消えるところでした。私の、決裁印ひとつで」
ヴィオラさんは、鞄から、分厚い書類を出した。私たちの、異議申立書だった。頁の端が、付箋だらけになっていた。
「そこに、これが、届いたんです。読みました。全部、読みました。三回、読みました。……お母さまの、『エ』の字の紙の写しのところで、私、書庫で、泣いてしまって。同僚に、変な目で見られました」
彼女は、眼鏡を、ぐい、と直した。
「それで、決めたんです。これは、机の上で決裁していい案件じゃない。本人がいるなら、会いに行こうって。規定にも、あるんです。『疑義ある場合、書記官は現地調査を行うことができる』。誰も使わない条文ですけど。使いました。上司は、嫌な顔をしましたけど」
アルヴェインさまと、モリスさんが、目を見合わせた。
王宮記録庁から、まさか、こんな形の援軍が来るとは、誰も、思っていなかった。
「ヴィオラどの。確認したい。調査の権限は、どこまである」
「事実確認と、報告書の作成です。私の報告書は、審査官の判断資料になります。——ですから、番人さま」
ヴィオラさんは、背筋を、伸ばした。
「私に、全部、見せてください。この方が『いる』という証拠を。私、紙の専門家です。紙のことなら、紙の言葉で、王宮に伝えられます」
◇
その夜、ヴィオラさんは、塔に泊まることになった。
夕食の席で、彼女は、ハンナさんのシチューを三杯おかわりし、テオの木彫りの星を褒め、モリスさんの台帳の整理法に、本気の感嘆の声を上げた。
「この塔、すごい……。索引が、完璧……。うちの第三書庫より、整理されてる……」
「三百年、かけておりますでな」
それから、彼女は、眼鏡を直して、不思議そうに、言った。
「……あの、ずっと、気になっていたことが、あるんです。ここへ来る途中の宿の宿帳に、エステルさまの泊まった記録が、ありました。なのに、宿の主人は、あなたを覚えていませんでした。なのに、私は、こうして、覚えていられる。どうしてだろうって」
「ヴィオラさんは、毎日、私の書類を、読んでくださっていたから——かもしれません」
「ああ……そうか。紙が、毎晩、私の記憶に、あなたを、書き戻してくれていたんだ」
紙は、忘れない。だから、紙を読み続ける人も、忘れない。——モリスさんが、その言葉を、大きく頷きながら、書き留めていた。
そして、食後のお茶のとき、彼女は、ふと、真顔に戻って、言った。
「エステルさま。一つだけ、先に、お伝えしておきます。調査は、公正にやります。あなたに有利なことも、不利なことも、見たままを書きます。それが、私の仕事ですから。——ただ」
彼女は、湯気の向こうで、少しだけ、笑った。
「公正にやれば、この案件、あなたが勝ちます。私、書類を見れば、分かるんです。あちらの書類は、形式は完璧なのに、急いでいる。急いだ書類は、必ず、どこかで、嘘をついています」
窓の外で、四つの灯りが、静かに、燃えていた。
明日から、ヴィオラさんの調査が、始まる。
お読みいただきありがとうございます。
援軍は、思いがけない方角から、来ました。
王宮記録庁の、眼鏡の書記官、ヴィオラさん。
「エ」の字の紙の写しで、書庫で泣いてしまった人です。
「急いだ書類は、必ず、どこかで、嘘をついています」
次回、第21話「書類にも、残す」。
第3章、最終話です。
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